
<J1昇格プレーオフ:千葉1-0徳島>◇13日◇決勝◇フクアリ
16年間、消えない心の苦しさがあった-。ジェフユナイテッド千葉が最下位でJ2降格が決まった2009年、主力FWとしてプレーしたOBの深井正樹さん(45=駒大総合教育研究部スポーツ・健康科学部門講師)は、心の底から古巣のJ1復帰を喜んだ。14年のプロ生活で最長となる5年半過ごした愛着あるクラブ。J2へ落とした責任を抱え、祈るような思いで今回の昇格プレーオフを見守り、そして快哉(かいさい)を叫んだ。
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心のつかえが取れた。深井さんは感無量の面持ちで“苦しみ”を吐露した。
「自分たちが落としてしまった。本当なら自分が現役の時に上げたかったし、その申し訳なさをずっと持っていました。それが本当に晴れたっていう安堵(あんど)感があります」
08年シーズン途中の8月に鹿島からレンタル移籍。駒大時代の同期・巻との2トップで11試合で4得点と活躍し、J1残留のキーマンとなった。迎えた2年目に千葉へ完全移籍。背番号9を託され、主力としてプレー。チーム最多の6得点(32試合)を記録したが、最下位の18位に沈んだ。
「ミラー監督のもと現実的なサッカーをしていました。下位にはいましたけど、何とかこのまま1シーズン乗り切れるんじゃないかっていう思いが少しあった。現場とクラブの間に距離を感じていた。僕は選手時代、常に結果が出ない時に選手(自分)が一番悪いと思っていました。ただクラブが1つになりきれていなかったように感じました」
何が背景にあったのか? 今になって考えると、オシム監督という存在の大きさがあったという。
「オシムさんの残像を選手もクラブもサポーターも、みんなが追いすぎていたのかなって思います。オシムさんを継承するのであれば、オシムさんと似たようなサッカーをする監督やそれに合う選手をそろえなければならない。だけどそれをしないのならば、別の方向にかじを切るしかない。でも当時の監督のやるサッカーに対し、みんながオシムさんと比べていた」
偉大過ぎる名将の残像から、理想と現実のはざまで揺れた。託した監督を信じ、現場とクラブが一体となれなかった。それが降格の理由だったと考えている。
10年以降J2でプレーを続けた。J1クラブからのオファーもあった中、13年まで千葉にとどまった。
「選手として出場機会が少なくなり、ここでダメだったらサッカーをやめようとさえ考えていた。その一番苦しい時に救ってもらったクラブだし、落とした責任感もあった。移籍しなくて良かったと今でも思います」
今年12月、晴れて指導者の最高位「JFA Proライセンス」を取得した。さまざまな経験や学びを経て、今あらためて思うことがある。クラブにはフィロソフィー(哲学)が必要だということだ。
「クラブにはオーナーがいて、スポンサーがいて、サポーターがいて。いろんな人たちとの関わりの中でチームはやっていかなきゃいけない。そこで本当に1つの同じ方向に向けるか? フィロソフィーが本当にちゃんとしていないと違う方向に行っちゃうと現役の時から思っていました。クラブとしてどうなっていきたいのかっていう未来のため、個々の思いは違ってもいいけど、行く方向が違うと苦しくなる。僕はそういうのを整えるための16年間だったように考えています」
機は熟した。同じく駒大の先輩、小林監督のもとで千葉はよみがえった。フクアリの一体感に現役時代の自分の姿を重ねていた。
「もう16年、本当に苦しい思いをさせたサポーターにまず謝罪したい。これから本当にビッグクラブになって、アジアや世界と戦っていけるようなクラブに、成長していけるように心から願っています」
深い罪悪感は雲散霧消。心の中は冬の澄んだ青空のようだった。【佐藤隆志】
◆深井正樹(ふかい・まさき)1980年(昭55)9月13日生まれ、山梨県増穂町(現富士川町)出身。韮崎高-駒大。全日本大学選抜の主力として、01年ユニバーシアード北京大会優勝。切れ味鋭いドリブルを武器に03年鹿島に入団。その後、新潟、名古屋、千葉、長崎、相模原に所属。J1通算158試合25得点、J2通算131試合20得点、J3通算28試合5得点。16年に引退し、17年から千葉の普及コーチ。19年4月からは母校駒大に勤務し、サッカー部コーチ。今年は指導者最高位Proライセンスを取得。
