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「裏切り者」と非難されても 平和と自由願った八島太郎の生き様


 鹿児島県で2025年に発行された道徳の教材に、西郷隆盛などと並んで地元ゆかりの画家が初めて取り上げられた。戦時中に米国の情報機関でビラを作って日本兵に投降を呼びかけ、日本側に「スパイ」と非難もされた生涯。亡くなって30年を経た今、古里と平和を思い続けた生き様が人々を引きつける。

 その人物は、南大隅町出身の八島太郎(本名・岩松惇(あつし))。1908年、錦江(きんこう)湾に面した自然豊かな港町、根占(ねじめ)で生まれ、12歳まで過ごした。医師だった父が村の人たちをいたわる姿を見て育ち、小学校では子どもたちの個性を最大限に尊重する恩師と出会うなどして感性を育んだ。

 鹿児島市の中学を卒業後、東京美術学校(現在の東京芸大)に入学した。しかし、軍事教練を拒否するなどして放校処分になった。在学中から参加したプロレタリア美術活動で何度も検挙、拘留された後、39年に自由な表現を求めて、妻と船で米国へ渡った。

 ニューヨークで働きながら絵を学ぶさなか、太平洋戦争の開戦を知った。米国で43年に出版した「あたらしい太陽」では、日本の軍部を批判し、犠牲になっている市民がいることを訴えた。

 戦争末期に所属した米国戦略事務局(OSS)などで制作したのが、日本兵に向けたビラだった。

 「父よ、生きよ」「あくまで生きぬくことは父よ、夫よ、あなたの義務である」「機會(きかい)を待たれよ かならず機会は来る」――。

 畑で立ちすくむ母子の絵に、懇願するようなメッセージを手書きの文字で書き込んでいた。戦時中にいくつもビラを作っており、ニューギニア戦線で実際に拾った日本兵もいたという。

 戦後は郷愁あふれる絵本「村の樹」(53年)の出版を皮切りに、米国で絵本作家としても活動するようになった。代表作「からすたろう」(55年)は小学校が舞台で、孤立しがちな男の子と彼の特性を見つめる先生との深い交流を描いた。先生のモデルは小学校時代の恩師で、日中戦争で戦死したその人にささげる一冊でもあった本作は、米国で最も優れた絵本に贈られるコルデコット賞の次席に輝いた。

 その後も国際的な美術展や児童文学界で受賞を重ね、八島は59年、生活拠点に近いカリフォルニア州ロングビーチにあるベイ・ショア・ネイバーフッド図書館の開館記念で5点の絵を寄贈している。同館は現在も絵を展示し、作品解説や八島の略歴を載せた無料の冊子を配布。司書長のアナ・ドレスさんは「水辺の子どもたちを描いた美しい作品は館の誇り」と語る。ドレスさんによると、米国の公立図書館には「からすたろう」など八島の代表作が所蔵されていることが多い。

 日本には戦後に計4度帰国した。ただ、戦時中のビラ制作や言動から「裏切り者」と言われ、八島の知名度は高いとはいえなかった。鹿児島県日置市の山田みほ子さん(86)は、父親が八島の国内滞在を支えた縁で親交があり「(八島は)ごまかしのきかない、真っすぐな人。厳しい面もあったけど、子どもたちに対してはとにかく温かく優しかった。素晴らしい画家が祖国で知られていないことがもどかしい」と話す。

 「からすたろう」は米国で世に出て24年後、偕成社から日本語版が出版され、第2回絵本にっぽん賞の特別賞を受賞した。八島は脳出血で倒れ米国で闘病中で、その後の帰国はかなわず94年、85歳で亡くなった。

 南大隅町が八島に本格的に光を当てたのは、没後30年の2024年のことだ。八島の本に描かれた町の風景を巡るイベントを開くと、熱心なファンが県内外から訪れた。

 町は、八島の母校の町立神山小学校にある石階段を保存する方針という。かつて木造校舎があった場所にあり、「からすたろう」に登場する描写と重なる。

 戦後80年の25年は、誕生月の9月に「やしまたろうの日」としてイベントを開き、八島が親しんだ自由律俳句にちなんだ大会には430句以上が寄せられた。町教育委員会の徳永美由記さんは「古里を思い続けた八島に心を寄せる人が増えている」と手応えを感じており、「平和と自由を願った彼の軌跡を、ぜひ多くの人と分かち合いたい」と話した。

 道徳の教材は県教育委員会のホームページから読むことができる。【田後真里】

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