人間の脳には、声を聞き分けるための「特別な場所」があります。
そこは「声エリア(TVA)」と呼ばれ、ふつうは人間の声にいちばん強く反応すると考えられてきました。
ところがスイスのジュネーブ大学(UNIGE)で行われた研究によって、この人間の声専用エリア(TVA)が人間の声だけでなく、チンパンジーの叫び声に対しても強く反応するものの、ボノボやマカク(アカゲザル)の声にはあまり強く反応しないことが示されました。
研究では単なる声の高さや大きさといった単純な音の違いを統計的に差し引いてもなお、チンパンジーの声だけが「人間の声用」のエリアを特に強く動かすことも確かめられています。
これは、人の脳がすべての動物の鳴き声を同じ「雑音」として扱っているのではなく、「チンパンジーの声は特別扱いされている」可能性を示します。
ヒトの声専用と思われていたエリアに、まだ「サル時代」の名残が潜んでいたのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年12月2日に『eLife』にて発表されました。
目次
- もし脳が「サル時代の声」をまだ覚えていたとしたら?
- チンパンジーの叫びだけが人の「声エリア」を揺さぶる
- 「言語」と「鳴き声」との共通フォーマットが存在するかもしれない
もし脳が「サル時代の声」をまだ覚えていたとしたら?

もしかすると人間の脳は、遠い昔に聞いた声をまだ覚えているのかもしれません。
私たちは日常生活で、人の声だけは他の音と明確に区別できると実感します。
たとえば雑踏の中でも誰かの呼び声にハッと気づいたり、動物園で動物の鳴き声が響いていても人の声は聞き漏らさなかったりするでしょう。
これは人間の声が社会的コミュニケーションの要であり、私たちの脳がそれを最優先で処理するよう進化してきたからだと考えられます。
実際、人間の脳の聴覚野には声を専門に分析する領域が存在し、そのかなりの部分がこの声の処理に充てられていることが知られています。
この「声エリア(TVA=側頭葉の音声野)」は、人間の声を聞くと特に強く活性化するのが特徴です。
このような声専用エリアは人間だけでなく他の動物にも見つかっており、サルやイヌの脳にもそれぞれ仲間の声に反応しやすい領域があることがわかっています。
言い換えれば、脳は自分と同じ種の声を特別な「合図」として識別しやすいようにできているのです。
そう考えると、人間の脳の声エリアも当然「人間の声だけ」に反応し、他の動物の鳴き声は単なる雑音として処理されるだろう——多くの人がそう予想するでしょう。
人間の被験者にサルやネコの鳴き声を聞かせた実験でも、声エリアが人間の声のような顕著な特異的反応を示すことはあまり報告されてきませんでした。
人間の脳は自分たち以外の動物の声を、ことさら重要なものとは見なしていないように思われてきたのです。
しかし、すべての動物の声が等しく「ただの音」に過ぎないわけではないかもしれません。
生物学的に見て人間にごく近い動物——大型類人猿の鳴き声についてはどうでしょうか。
チンパンジーとボノボは遺伝的に人間に最も近い種ですが、とりわけボノボの声は高音で甲高く、鳥のさえずりにも例えられる独特な響きを持っています。
その背景には、ボノボの発声器官が進化によって小型化した結果、チンパンジーよりも高い基本周波数(声の高さ)の声を発するようになったことがあると別の研究からも示されています。
たとえば幼いボノボの鳴き声はチンパンジーや人間の赤ちゃんの泣き声よりも高周波であることが報告されており、ボノボの声はヒトやチンパンジーの声から音響的に大きくかけ離れているのです。
一方、チンパンジーの声はボノボほど高くはなく、人間の声にも比較的近い周波数帯を持ちます。
このように「進化的な近さ」に加えて「声の音質の近さ」も備えたチンパンジーの叫びであれば、人間の脳が何らかの“懐かしさ”を感じ取る可能性はないでしょうか。
もし人間の脳がチンパンジーの声に特別な反応を示すと判明すれば、それは脳内に眠る進化的記憶の一端を明かすことになるかもしれません。
果たして、人間の脳はサル時代の「声」をどこまで覚えているのでしょうか?
チンパンジーの叫びだけが人の「声エリア」を揺さぶる

スイス・ジュネーブ大学の研究チームは、人間の被験者がチンパンジーの声にどのように反応するかを詳しく調べるため実験を行いました。
被験者となった23名の成人はMRIスキャナーに横たわり、ヘッドフォン越しに様々な鳴き声を聞かされます。
用意された音声は全部で4種類で、人間の話し声(対照群)とチンパンジー、ボノボ、アカゲザル(マカク属のサル)の鳴き声でした。
被験者は事前に各動物の鳴き声を少し学習した上で、一つ一つの音声刺激について「どの種の声か」を推測しながら聞くよう求められました。
同時に脳全体の活動がfMRIで記録され、特に聴覚野の反応に注目して解析が行われました。
研究チームの狙いは、人間の声エリア内に「霊長類の声に特に反応するサブ領域」が存在するかどうかを確かめることでした。
結果、人間の側頭葉にある上側頭回(じょうそくとうかい)という領域がチンパンジーの声を聞いたときに顕著に活性化することが観察されました。
この上側頭回はまさに声エリアに相当する場所で、人間では言語や音楽、感情のこもった声などを処理する重要な音響野です。
一方でボノボやマカク(アカゲザル)の声にはあまり強く反応しないことが示されました。
では、この結果は単に「チンパンジーの声が人間の声に音質が似ているから」でしょうか。
例えばボノボの声はチンパンジーよりも高音ですが、その違い(声の高さや大きさ)が原因で脳の反応に差が出た可能性も考えられます。
そこで研究チームは、鳴き声ごとの基本的な音響パラメータを統計モデルで補正し、純粋に「種の違い」による脳活動を抽出する追加解析を行いました。
簡単にいえば、「音の高さと音量の違い」を差し引いて比較し直したのです。
結果は、それでもチンパンジーの声に対する強い反応は補正後も依然として残存し、声エリア内で有意な活動として検出され続けました。
対照的に、ボノボの声では補正を施してもやはり特筆すべき反応は現れませんでした。
この事実は重要です。
なぜなら、脳がチンパンジーの声に示した特別な反応は単なる「周波数帯の近さ」だけでは説明できず、より複雑なパターンに対する敏感さが関与していることを示すからです。
例えるなら、まるでラジオのチューナーが特定の周波数に合うと放送をはっきりと受信できるように、人間の脳も「自分たちの声に近いパターン」の音であれば信号を拾いやすいのかもしれません。
チンパンジーの叫び声には、人間の脳が進化の中で「聞き慣れたパターン」として反応しやすい特徴が含まれている可能性があります。
「言語」と「鳴き声」との共通フォーマットが存在するかもしれない

今回の研究により、人間の脳がチンパンジーの声を特別扱いしていることが明確な形で示されました。
声の理解というと人間固有の高度な機能のように思われがちですが、実はその神経基盤の一部は人類が出現する以前から存在していた可能性があります。
研究チームは、人間とチンパンジーの声の構造には共通の祖先(数百万年前)の特徴が受け継がれている可能性があると指摘しています。
つまり私たち人間の脳には、進化の過程で培われた音声認識の“ひな型”のようなものが残されており、それが自分たちの声に似た音を聞くと自動的に作動するのでしょう。
この発見は、人間の音声コミュニケーションの起源を探る上で新たな視点を提供します。
人間と類人猿に共通する音声処理能力が確認されたことで、それが言語の出現以前から脳内に存在した基本機能である可能性が示唆されます。
極端にいえば、言葉を持たない太古の時代から、私たちの脳には仲間の声(あるいはその原型となる泣き声や叫び声)を聞き分ける“仕組み”が備わっていたのかもしれません。
さらに本研究の知見は、乳幼児がどのように声を認識し言語を習得していくのかという謎を解明する手がかりにもなり得ます。
例えば胎児が母親の声をお腹の中で聞き分けられるのはなぜか、といった現象についても、今回明らかになった脳の性質から説明がつく可能性があります。
声エリアが反応する音のパターンが決まっているとすれば、その“周波数の窓”に合致する声は生まれる前からでも脳に届きやすい、という仮説も導けるでしょう。
もしチンパンジーの鳴き声と人間の言語の共通点を詳細に理解できれば、真の意味で言語の本質に迫ることができるかもしれません。
元論文
Sensitivity of the human temporal voice areas to nonhuman primate vocalizations
https://doi.org/10.7554/eLife.108795.1
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部
