1987年3月に一橋大学を卒業後、旭硝子株式会社(現AGC)に入社し、国内では大阪、東京、仙台に勤務した後に香港に駐在。
現地法人社長を経て2002年にワコン段ボール株式会社(現ワコン)の代表取締役に就任。現在に至る。
創業からこれまでの事業変遷
ー 創業から現在に至るまでの事業変遷を簡単にご共有いただけますか?
西田 まず当社は1951年に創業され、1972年にワコン段ボール株式会社という形で法人化しました。最初は私の父親が始めた会社で、和歌山梱包輸送という会社でした。当時は和歌山の名産である繊維の染め物を、海外に輸出する際の木箱を作るところから事業開始しました。
その後、ダンボールが普及し始めたため、当社も木箱からダンボール事業へと移行しました。そして、ダンボール部門が徐々に拡大し、1997年には特殊なダンボールである強化ダンボールの扱いも始めました。この頃には、ほとんどダンボールがメインの事業となっていました。
私が入社したのは2002年で、その後2008年に親会社の和歌山梱包とワコン段ボールを合併しました。入社後、ダンボールを使ったパレットやプラスチック箱など、いろんな事業展開を始めて、途中でいくつかの工場も立ち上げながら現在に至っています。
代替わりの経緯・背景
ー 西田さんが社長に就任された経緯について教えていただけますか?以前は別の会社に勤めていたと聞いていますが、どのようなきっかけで戻られたのでしょうか。
西田 私は元々別の会社でサラリーマンをしていたのですが、その時は当社に戻る気はありませんでした。しかし、自分で会社を経営することに魅力を感じ、結果的に戻ることになりました。当時の弊社は親会社の和歌山梱包と子会社のワコン段ボールの2つに分かれており、最初は子会社の社長を務めていました。
当時は親会社の社長は別の人が就いていて、少し引継ぎトラブルもありながら、最終的に全体の代表に就任しました。
ー そもそも戻るきっかけは何だったのでしょうか?
西田 異業種のサラリーマンをしていた時に、香港支社に異動になり、その流れで支社長になりました。当時は支社長としてある程度自由に楽しく仕事ができていたのですが、いくら支社長といえど大きな会社ではやりたいことができなかったり、ジレンマを抱えることがあったりしました。
そんな時、香港のお客さんから一緒に会社を作ろうと誘われ、香港で会社を作って好き勝手できるかなと思ったのですが、結局、父親の作った会社が和歌山にあることや、母親のことも考えて、香港ではなく和歌山で自由にやることに決めました。
つまり、香港支社長になることで自由さを覚えて、それがきっかけで社長になりたいと思い、当社に帰ってきたという流れになります。
ー 他のインタビューで、戻るきっかけの一つに専務の方がいらっしゃったとおっしゃっていましたが、その方との関係はどのようなものでしたか?
西田 その専務の方は、ダンボール事業を始めた時の責任者で、彼から「今でなくてもいいけど、いつか帰ってきてほしい」と言われたんです。彼は、私が定年でリタイアするタイミングでもいいから帰ってきて欲しいと言ってくれていました。その言葉もきっかけの一つでした。
成長のブレイクスルーとなったポイント
ー それでは、西田様が代表就任後の御社の成長についてお聞かせください。
西田 まず、社員たちが前向きで、みんなが私のやりたいことに一緒に取り組んでくれました。最初は一部の人からの抵抗もありましたが、基本的には前向きな人たちばかりで、無茶振りをしてもできるようになるんだということを繰り返していました。
その結果、売り上げが20年で約30億円まで伸びました。その背景には、社員の皆さんのおかげで、私がやりたいことに取り組める環境が整っていたことが大きかったと思います。
ー そこまでの事業成長を実現させる「西田社長のやりたいこと」とはなんだったのでしょうか?
西田 前職のガラスメーカーの営業をしていた際に気づいた3つのことを取り入れるようにしました。
まず1つ目は、ガラスがその用途に最適な素材でない場合には、ガラスの営業が厳しくなるということです。例えば、水族館では昔はガラスが使われていましたが、今はアクリルが主流になっています。それは、アクリルの方が適しているからです。 そうした場合に、どれだけガラスを営業してもアクリルに負けます。ガラスしか扱ってなければビジネスチャンスを失い、結果的に、単一素材では市場が狭くなるということに気づきました。
2つ目は、ガラスのディーラーや代理店の強さです。会社のシェアはディーラーの強さによって変わりますが、強いディーラーはただの売り子ではなく、何かプラスアルファの付加価値を持っています。営業には武器が必要だということが分かりました。
3つ目は、例えばガラス工事をする際に、私の前職の会社のような大手企業がやると人件費が高くなることです。そこで、街中の中小企業と組むことでコスト競争力を高めることができました。
ー 前職の経験を踏まえて、御社ではどのように活かしてきたのでしょうか?
西田 まず、ダンボール以外の素材を扱おうと考えました。次に、付加価値として設計力を身につけることを考えました。設計力を武器にしていくことで、競争力を高めることができると思いました。そして最後に、労働集約的な事業を展開しようと考えました。人件費の割合が大きい事業だからこそ、我々の方が競争力があると考えたのです。
ー それらの戦略を元に、具体的にどのような事業を展開していきましたか?
西田 まずはダンボール以外の素材として、プラスチックを扱いました。プラスチックダンボールは、大企業が追随できないため競争力があります。次に、設計力を活かして、日本有数の包装設計ができる会社に成長しました。そして最後に、労働集約的な事業として、輸出梱包のサービスを展開しました。このサービスは人件費の割合が大きいため、競争力があると考えました。
ー ありがとうございます、よく理解できました。
今後の経営・事業の展望
ー 今後の展望について伺ってもよろしいでしょうか?
西田 これまで我々はダンボールや輸出用の箱を作っているメーカーとして事業展開してきましたが、お客さんが実際に欲しいのは安全・安心・安価に輸送できる手段であり、そのために我々の箱が存在すると考えています。そこで、輸送にこだわったサービスや製品開発を行っています。
まず、より安く実現させるために、お客さんがダンボールを組み立てるコストを削減できるよう、自動組み立て機のレンタルを始めています。また、必要な時だけ箱をレンタルできるサブスクリプションモデルも提案しています。
次に、物流の間を埋めるために、大きな箱をレンタルで提供して、通常の運送会社で運べるサイズのものを提供しています。さらに、食品や医薬品など安心して貨物を送りたい方向けに、高性能な断熱箱を開発しています。
さらに、より早く物流を実現するために、関西と成田に航空貨物専用のターミナルを作り、今後増えるであろう海外向けのEコマースのニーズに対応できるようにセンターを作ろうと考えています。
ー それらを実現するためには、新しい能力を持った人材が必要になると思いますが、どのような取り組みをされていますか?
西田 はい、やはり人が一番重要です。現在は十分な人材を確保できていますが、今後も質・量ともに採用を行い、離職率を抑えることが大切だと考えています。
ー 社内での離職率はどの程度ですか?
西田 離職率はそんなに高くないですが、一部の部署では高いところもあります。ですが、全体としてはほとんど辞めていない状況です。今後も人材を第一に捉えて、経営を行なっていきます。
THE OWNER ユーザーへ一言
ー 最後に経営者を中心とする皆さんへ、西田様のご経験からアドバイスをいただければと思います。
西田 承継を考える際に、やりたいかやりたくないかという気持ちが重要だと思います。やりたい気持ちが強いのであれば、楽しみながら取り組むことができるでしょう。ただし、やらされると思うのであれば、やらない方がいいです。
私自身も、継がなくてもよかったのですが、好き勝手にやりたいことをやれるという点で、結果的に継いでよかったと思っています。ダンボール屋さんになりたかったわけではないのですが、やりたいことがあるのであれば、挑戦すべきだと思います。
ー 後悔はないということですね。
西田 はい、全く後悔はありません。たまに前職の人たちと飲んだりしますが、前の職場で役員になっていたとしても、今の仕事の方が良かったと思います。給料に関してはわからないですが、おそらく負けていると思います。ただ、やりたいことができるという点で、満足しています。
ー 本日は貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。
- 氏名
- 西田耕平(にしだ こうへい)
- 会社名
- ワコン株式会社
- 役職
- 代表取締役