たった一人の英雄の出現で世界が一変しうることは歴史が雄弁に物語っています。
そして、それは人間の世界に限ったことではないのです。
米ミシガン工科大学(MTU)の研究チームは最新論文で、壊滅寸前だったオオカミのコロニーを救った1匹の雄オオカミの物語を伝えています。
さらにこのオオカミはヘラジカに荒らされていた森の生態系まで回復させたというのです。
ここでは英雄の到来からコロニーの栄枯盛衰の一部始終を追っていきましょう。
研究の詳細は、2023年8月23日付で科学雑誌『Science』に掲載されています。
目次
- 壊滅寸前に追い込まれた島オオカミたち
- M93によって島の森林が息を吹き返す
壊滅寸前に追い込まれた島オオカミたち
物語の舞台はアメリカとカナダを横断する五大湖の一つ、スペリオル湖に浮かぶ最大の島「アイル・ロイヤル」です。
アイル・ロイヤルは全長73キロ、最大幅14キロの島で、ミシガン工科大の研究チームは1950年代から在来の島オオカミを追跡し研究してきました。
しかし研究チームが追跡していた島オオカミのコロニーは狩りの成績が悪く、群れの状態も散々なものでした。
さらに1980年代に犬パルボウイルスが大流行し、島オオカミの個体数は50頭から12頭に激減します。
80年代の末までに感染症は終息しましたが、島オオカミの数は回復しませんでした。
というのも生き残ったオオカミは近親関係にあり、繁殖しても遺伝的多様性に乏しく、脆弱だったためです。
チームは後に、当時のコロニーに属する多くの個体が背骨に形成異常を起こしていたことを発見しました。
イヌ科の背骨の異常は痛みを伴ったり、運動能力に支障をきたす恐れがあります。
またアイル・ロイヤルは本土からほぼ完全に隔離されていたため、本土のオオカミが入ってくる余地がありません。
こうして島オオカミのコロニーは壊滅寸前に追い込まれたのです。
氷の橋を渡ってきた1匹の英雄
ところが1997年に、アイル・ロイヤルとカナダ本土を一時的につないだ長さ24キロの氷の橋が運命を一変させます。
その橋を渡って1匹の雄オオカミがアイル・ロイヤルにやって来たのです。
氷の橋は毎年できるわけではなく、できても数日しかもたないことも多いため、本土のオオカミがこの氷の橋を渡ることができたのは奇跡的でした。
この雄オオカミを研究報告上では「M93」として識別されていますが、研究チームは親しみを込めて彼を「The Old Gray Guy(=灰色の老爺)」と呼んでいます。
これはM93の毛皮が年を重ねるにつれて灰色に変わっていったためです。在来の島オオカミには見られない特徴だといいます。
M93はアイル・ロイヤルに到着後、すぐに島オオカミのコロニーに加わり、群れを率いるリーダー(アルファ・オス)となりました。
大陸育ちのM93は在来の島オオカミよりも遥かに大柄で、縄張りを守ったり、彼らの8倍の重さがあるヘラジカを狩る能力に長けていたからです。
そして最も重大な影響はコロニーに遺伝的多様性をもたらしたことでした。
M93は島オオカミたちと血縁関係がないため、群れのメスたちは次々と健康な子供を産んでいきました。
彼はリーダーを務めた8年間で合計34頭の子供をなしています。
M93の到来から数年でコロニーの個体数は右肩上がりに回復し、常時30頭を数えるまでになりました。
彼は壊滅寸前だったコロニーを見事に救ったのです。
さらにM93の存在はコロニーだけでなく、島の森林生態系をも回復させることになります。
M93によって島の森林が息を吹き返す
M93がもたらしたもう一つの大きな遺産は、アイル・ロイヤルの森林生態系の回復でした。
島には在来のオオカミの他に、唯一の大型草食動物である「ヘラジカ」が住んでいました。
ヘラジカは体重が360〜500キロと巨体ですが、本来ならオオカミの主な獲物となります。
しかし壊滅寸前のオオカミでは太刀打ちできず、ヘラジカはどんどん数を増やしていったのです。
彼らは1日に最大13キロもの植物を大量に消費するため、数の増えすぎは森林に甚大なダメージを与えます。
案の定、ヘラジカが好き放題に植物を食べた結果、島の木々が激減して、生態系のバランスが崩れてしまったのです。
ところがM93が出現してからの10年間で、急速に回復したオオカミのコロニーが高い割合でヘラジカを捕食したことで、ヘラジカの個体数は着実に減少。
そのおかげで植物の過剰消費が防がれ、草木は順調に繁殖し、島の森林が再び息を吹き返しました。
たった1匹のオオカミの存在は、生態系の秩序を取り戻すまでに絶大なものだったのです。
英雄の喪失、ふたたび衰退へ…
しかし現実はときに非情なものです。
おとぎ話のように「いつまでも幸せに暮らしました」と簡単なハッピーエンドは許してくれません。
M93は2006年に亡くなり、彼が築いた全盛時代は10年ほどで終わりを迎えます。
2008年頃になると島オオカミたちは急速に勢力を失い始めました。
繁栄をもたらしたM93の遺伝子が一転して裏目に出始めたのです。
リーダーとして絶対の地位を築いたM93は島にいた大多数のメスと交配し、子供をなしていました。
しまいには血のつながった娘とも関係を持ち、その子供たちもコロニー内で繁殖を続けます。
次第に群れの多くがM93の遺伝子を色濃く受け継ぐようになりました。
2008年の調査では、コロニーの遺伝子プール(集団が持つ遺伝子の総体)の60%がM93由来のものと判明したのです。
そして再び近親交配が一般化すると、以前と同じように個体数が減少し始めます。
2015年までにはオスとメスの1頭ずつが生き残り、結局、彼らも繁殖には成功しませんでした。
ちなみにこの2頭は父と娘でありながら、異父兄妹でもあったそうです。
現在、アイル・ロイヤルはヘラジカの天下となっており、また森林生態系の秩序が崩れ始めているといいます。
以上がこの島で起きたオオカミの栄枯盛衰の顛末です。
しかし、この物語はたった1匹の存在がたとえ一時と言えど、壊滅的な状況を大きく変えうることを証明しています。
今後、アイル・ロイヤルに氷の橋が築かれたとき、新たな英雄が帰還して、島の生態系を救ってくれるかもしれません。
参考文献
Isle Royale’s Old Gray Guy: How One Wolf Impacted an Entire Ecosystem https://www.mtu.edu/unscripted/2023/08/isle-royales-old-gray-guy-how-one-wolf-impacted-an-entire-ecosystem.html How a lone ‘immigrant’wolf revived a forest ecosystem https://phys.org/news/2023-08-lone-immigrant-wolf-revived-forest.html元論文
The far-reaching effects of genetic process in a keystone predator species, grey wolves https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.adc8724