いまや自動車産業にとって新興国ビジネスは片手間では済まない。かつて日本が、そして韓国と中国も歩んだような道を新興国のモータリゼーションも歩むと予想される。スズキがインドで車両生産を始めたのは1983年12月、32年前のことだ。GMの資本参加で北米事業が安泰になり、インドへ進出が可能になった。完全自立のいま、スズキにはディーゼルが必須なのである。
TEXT:牧野茂雄(MAKINO Shigeo)
*本記事は2015年12月に執筆したものです
気筒当たり排気量396.5cc。軽自動車の660cc3気筒ガソリンエンジンよりは大きいが、この小さなシリンダーをふたつ並べた直列2気筒ディーゼルエンジン(DE)「E08A」は、現在では自動車用DEの世界最小排気量である。2015年6月にインドのマルチスズキ(スズキ子会社)は、このDEを積む乗用車「セレリオ」を発売した。通常の800ccガソリン仕様に比べて邦貨換算で13万円ほど割高になるが、10月末までに約4500台が売れた。当面はインド専用のエンジンである。
「燃費と排ガスの両方をねらいました。小排気量でありセレリオも小さなクルマなのでお客さんは燃費(燃料コスト)を気にします。同時に、将来的にインドの排ガス規制が現在のユーロ4相当よりも厳しくなった時点でも十分に対応できるよう、エンジン単体での排ガス性能も必要です。その結果、圧縮比は15.1になりました」
スズキのDE開発チームはこう言う。現在、インドのDE排ガス規制はバハラット(Bharat=インドの大地という意味)ステージ4と呼ばれ、ユーロ4に相当する。試験モードは欧州のNEDC=ニュー・ヨーロピアン・ドライビング・サイクルが基本であり、そこから最高時速90km以上の部分を省略したモードが用いられる。次世代規制の実施はまだ先のことだと思われるが、スズキ初の自社開発DEであるから発展性を持たせた設計であることは間違いないだろう。圧縮比を15.1まで攻めた点に、そのヒントがある。この燃焼室設計をベースに3気筒、4気筒化、さらには欧州向けや日本向けという展開も構想にはあると見るべきだろう。つまり、スズキE08A型DEの論点は、全世界共通DEをどう造るかという点にある。
新興国市場向けのDEは、現在でも圧縮比18程度以上が相場だ。欧米メーカーは平気で旧世代DEを継続生産している。そういう環境に、なぜ圧縮比15.1なのか。
「目標は15でした。わずかにオーバーですが、インド現地で走行実験を重ねる段階で、ほかの要件とのバランス取りが必要になりました。そもそものねらいは、とにかくエンジンを軽くすることです。軽くするには燃焼圧力を下げればいい。DEの構造物は圧縮比に引っ張られます。E08Aのシリンダーブロックはアルミ鋳造で、ブロックだけを見ればガソリンエンジンです。軽くすれば搭載要件も楽になります」
圧縮比を低くすればブロックはアルミ化できる。総重量89kgと言えば容量の大きいCVTと大して変わらない。同時に機械損失も減る。これは燃費に効く。それと、スズキの設計陣は音と振動に配慮した。
「クルマが財産であるインドでは、この部分に対してもユーザーの要求は厳しいのです。360度間隔の燃焼で2気筒が同じ方向に動くため、計算初期段階でその慣性力を打ち消す必要があることはわかっていました。ピストン/コンロッドの半分の質量をクランクシャフトと等速で回すバランサーシャフトで対策しました。高さはクランク軸と同じです。クランク軸よりもやや高い位置に配置すると加速時の振動を打ち消すには有利ですが、デメリットもあります。いろいろと考えてクランク軸と同じ高さにしました。そのため、スカート部分は横に出っ張りますが、エンジンブロックの設計はここが決まってからはスムーズにいきました」
エンジン設計はクランクシャフトとボアピッチから始まるが、E08A型はヘッドボルト6本という方式とメインジャーナルの最小断面積、それと圧縮比を15.1に抑えた燃焼圧力などから思い切ってスリムな設計になった。将来的に排ガス後処理装置が増えたとしてもAセグメント車のエンジンルームに収まるだろう。
燃料供給系統は最大圧145MPaのインジェクターを使う。2気筒のためコモンレールは不要でポンプからの配管直出しである。燃料系の部品は独・ボッシュのインド法人製であり、すべてインドで入手できる部品を念頭に置いて設計した。気になるのは燃焼室設計だが、ここもインドの事情に配慮している。
「軽油はムンバイやデリーなど7都市では硫黄分50ppmですが、ほかは300ppmです。この燃料が前提です。走行環境は、市街地は基本的につねに渋滞で、郊外でも道があまり良くないのでせいぜい時速50〜60kmです。ここが欧州などとは決定的に違います。2000rpm付近までの低回転域高負荷領域に燃費の目玉を置き、低速トルクを重視しています」
近年はインド国内でも幹線道路の整備が進んでいるが、それでも最高は時速90km程度だ。むしろDEに有利な環境である。日常域での力強さと燃費をとにかく優先したと言う。
「燃料噴射はパイロットが2回でメイン1回、ポストは使っていません。なるべくTDC(上死点)付近で燃料を噴きたいのでスワールはあまり使っていません。短い時間で混合気を作るため吸気ポートは片側がヘリカル、もう片方はタンジェンシャルです。これで空気をうまく吸い込み日常域の燃費をねらいました。新興国こそ、モード燃費より実燃費です。ガソリン車よりも高価なDEですから、確実にメリットを実感してもらう必要があります」
開発段階では、インド側のスタッフと相当な距離を走り込んだと言う。MTのギヤ比も走りながら決めた。悩んだのはターボだと言う。
「高地でも気温が高いインドではターボチャージャーの差圧が問題になるため、ターボの選択は慎重でした。気温45°Cでの渋滞も過給エンジンにとっては厳しく、吸気温度が高いと出力が落ちてしまいます。タービン径を大きめにすると燃費は稼げますが、今度は低回転で過給圧が足りなくなります。燃焼で頑張るにも限界があるので、レスポンスを損なわないところで燃費に振れるようなターボの選択でした。ただ、エンジンが2気筒であるためエンジンルームには余裕があります。意外に熱害は楽でした」
企画着手から約5年を費やし、0.8ℓDEは完成した。いまのところ搭載車はセレリオだけである。今後は搭載車種が増えるのだろうが、果たして市場が小排気量DEをどう見るだろうか。インドでは政府が政策的に軽油に恩典を与えてきた。現在はCNG(圧縮天然ガス)も推奨しており、マルチスズキは現地でCNG車を販売している。しかし、こうしたエネルギー政策に振り回されるのではなく、自動車メーカーとしてパワートレーン戦略は柔軟かつ臨機応変に遂行したい。スズキはFPT(フィアット・パワートレーン・テクノロジーズ)から1.3lDEのライセンスを購入してインドで量産しているが、いずれはすべてを自社製に切り替えたいはずである。その場合はE08Aベースの3気筒という選択か。
Bセグメントまでの小さなクルマを主力とするスズキは、このE08A型によってパワートレーン戦略の新たな扉を開いた。CO2排出の削減は新興国にとっても逃げられないテーマであると同時に、ユーザーは実燃費の良いクルマを求めている。これは環境規制で先行している国も同じ。つまり、これからのDEは地域無差別型として設計されるべき、ということだ。「素」の状態をいかに造り込むか。E08A型の設計はここがポイントである。