去る9月23日、アメリカ・カリフォルニア州のニューサム知事は「2035年までに州内で販売されるすべての新車乗用車をZEV(ゼロ・エミッション・ビークル=無排出ガス車)にすることを義務付ける」と語った。カリフォルニア州大気資源局(CARB=California Air Resources Board)に対し、具体的な規制づくりを行なうよう指示した。このような「内燃機関エンジン車禁止」は、現在までにいくつかの国で宣言されているが、具体的な規制スケジュールも含めて法的拘束力を持った「宣言」は、じつはまだ存在しない。そう簡単には自動車のオール電化には踏み切れないのだ。
TEXT◎牧野茂雄(MAKINO Shigeo)
なぜカルフォルニアなのか? それには理由がある
1943年7月26日、第二次大戦の最中、ロサンジェルス市は灰色の霧に覆われた。のちにこれがスモッグであると判明するのだが、当時はその正体も発生原因も不明だった。その発生メカニズムがカリフォルニア大学のハーゲンシュミット教授によって解明されたのは1952年だった。朝のラッシュ時にクルマから大気放出された物質が太陽光線を受けて変質し、午後2時ごろにオゾン(O3)生成がピークを迎えることがわかったのだ。これが「灰色の霧」の正体だった。そして、この霧の発生には海と山に囲まれたロサンジェルスの地形が大きく関係していることも判明した。
自動車から排出されるNOx(窒素酸化物)のうち90〜95%を占めるNO(一酸化窒素)は、大気中に放出されたあと大気中でほかのO(酸素)とくっ付いてNO2に変化する。人間がNO2を吸い込むと、肺の中でO原子が飛び出して肺胞を刺戟し、さらにほかのO2(酸素分子)とくっついて前述のO3=オゾンに変化する。オゾンは刺激性の強い物質であり呼吸器系には有害だ。NOのままでは人体への直接影響はないが、これがNO2に変わり、やがて腐食性の強いオゾンを生成すると健康被害をもたらす。
また、大気中を漂うNO2に太陽光の紫外線が当たると、これもオゾンに変化する。紫外線は波長が短くエネルギー量が大きい電磁波であり、NO2を刺戟してOを飛び出させ、飛び出したOをO2と結び付けるのだ。光による化学反応だからこれをフォト・ケミカル・リアクションと呼び、日本語訳は「光化学」。よく晴れた日にこのプロセスで生成される「灰色の霧」が、光化学スモッグと呼ばれるようになった。
オゾンは成層圏(地表から約50km)に集まると太陽からの紫外線を吸収してくれる有益なオゾン層になるが、対流圏(同16km以下)では人間の気管支や肺に被害をもたらす。さらに、NOx同様に排ガス規制のない時代にはまったく野放しだったCO(一酸化炭素)は呼吸気中の濃度が0.1%を超えると致死量だ。COを人間が吸い込むと血中ヘモグロビンが酸素を運搬できなくなり、わずか2分ほどで脳細胞が死滅を始める。これが一酸化炭素中毒である。
カ州は、こうした自動車排出ガスによる健康被害を世界中のどの都市よりも早く経験した。アメリカが世界に先駆けて自動車排出ガス規制を導入した理由もここにある。そして現在、アメリカの排出ガス規制は1950年当時のクルマとの比較では有害排出物1万分の1以下というレベルになったが、ここに到るまでの過程でもカ州は給油時のガソリン蒸発ガスやNMOG(ノン・メタン・オーガニック・ガス)などの規制を打ち出してきた。
1990年のZEV規制の意味とは?
1990年、当時の州政府の指示によりCARBが決定したZEV規制は、自動車メーカーごとに州内全販売台数の2%相当を「無排出ガス車」にするというものだった。当時、筆者は新聞記者として自動車産業を取材していたので、ZEV規制とその周辺についても現地で取材を行なった。そこで聞いた意外な言葉は「カ州は発電量の17%が余っている。これを自動車に使ってもらいたい」という電力業界関係者の発言だった。
ZEV規制に対応するためGMは、1996年に鉛酸電池を使う先進的量産BEV「EV1」をリース方式で投入し、トヨタやフォードもこれに続いたが、電力を使って欲しい電力業界よりもガソリンを売りたい石油業界が政治的に勝利した。その結果、ZEV規制は骨抜きになった。実際、このあとカ州では総合エネルギー企業エンロンの破綻などの出来事が起こる。
日本でも1980年代後半に電力業界がいっせいにBEVをアピールした。その背景もカ州に似ていた。時間帯ごとの出力調整ができない原発が夜中にも延々と発電しつづける電力を「夜間にBEVに充電してもらえませんか」という目的だった。しかし、ときはまさにバブル景気突入の時期だったため、製造業の工場は24時間体制で稼働し、しまいには夜間電力すら余らなくなった。そのため80年代後半から90年代初頭にかけて電力業界が演出したBEVブームはあっけなく終わった。
地球温暖化(グローバル・ウォーミング)という言葉が世の中に出回り始めたのは、ちょうど日本でこのBEVブームが起きた80年代末だった。人類の経済活動が産むCO2(二酸化炭素)やメタンなどの温室効果ガスが「大気圏内の気温を上昇させている」と騒がれた。同時に欧州では「自動車排ガスが酸性雨の原因になり森林を破壊している」と槍玉に挙げられ、1993年に欧州連合条約が発効しそれまでのEC(欧州諸共同体)が発展的に解消してEU(欧州連合)が誕生するのと前後して、欧州初の排ガス規制「ユーロ1」が導入される。これが1993年だった。
EUでCO2削減議論が活発になるのは、1988年に設立されたIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が活動を開始して以降である。そして1997年12月に京都で行なわれた第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)までには「温暖化を食い止めよう」という大きな流れが形成され、CO2排出抑制へとEUが動き出した。
筆者が環境庁(当時)を担当していた86年から89年は「地球環境問題」が大きな取材テーマだった。86年以降、筆者は100人以上の研究者や政府関係者に取材し、2017年までの31年間、このテーマで欧州にもたびたび出向いた。そのなかで知ったことは、ある時期から「地球の惨状」を過剰演出することに精を出す官僚と政治家が欧州で増え、本当にCO2が地球温暖化の「たったひとつの原因」なのかどうかを検証する科学的な活動が下火になってしまったということだ。
1990年代末以降、地球温暖化の原因調査は盛んになった。その結果、地球の歳差(ごますり)運動による地軸の傾きの変化や太陽を周回する地球の公転軌道の変化、太陽の黒点活動や巨大フレアの発生などが気候変動をもたらす大きな要因と推測された。CO2はむしろ、容疑者のひとりに過ぎなかった。
それから約30年を経た現在は、過去7万年分の堆積物の分析から過去に温暖期と氷期とが繰り返され、温暖期には現在よりも気温と海水面が高い時期が存在したことが明らかになっている。グリーンランドと日本の水月湖(福井県)で採取された堆積物の比較からは、グリーンランドと日本の過去数万年の気候変化が完全に一致していることもわかった。
ただし、現在より気温が高い時代がなぜ存在したのか、その理由はまだ特定されていない。ひとつ明らかなことは、7万年前や5万年前には人類の工業生産活動など存在せず、人為的CO2も存在しなかったということだ。それでも気温の高い時期が何度か訪れていた。
天文学や地球物理学の専門家諸氏は「地球の地軸や軌道の変化と太陽活動の変化がもたらした大気圏内の温度変化」を問題にしている。気温シミュレーションの結果を見せていただいたこともある。しかし、現在はこれを検証する必要はないとでも言わんばかりのCO2悪玉論偏重であり、「そうしておくほうが都合がいい」という発言も多く聞く。
人類がもっと利口にならないかぎりCO2悪玉論はこのまま結論になる
詳細は省くが、人類がもっと利口にならないかぎりCO2悪玉論はこのまま結論になるだろう。温暖化が進むと国土が水没するオランダ王国の存在、欧州の王国同士の繋がり、各王室の資産運用手段としての王室ファンドの存在、VW(フォルクスワーゲン)のディーゼルゲート問題以降すっかり信用失墜した自動車産業への冷たい視線、それを選挙に利用する政治家、選挙で選ばれるEU議会議員の力関係、彼らが予算執行する研究費が欲しい研究者の存在……取材すればするほど、この問題の根は深いと感じる。
では、カ州のICE(内燃機関エンジン)車販売禁止の背景はどこにあるのか。2022年に向けたカ州ZEV規制の強化は既定路線であり、全販売台数の22%ぶんのクレジットをBEV/FCEV/PHEVで賄うという案はすでに存在していた。また、2035年という年次設定は、ほかの国でのエンジン車販売禁止論議と一致し、これもめずらしいことではない。
筆者の推測は、「州政府の無策」と批難され始めたカ州の山火事の発生と消火活動の遅れを「地球温暖化のせいだ」と責任転嫁するために自動車を槍玉に挙げたのではないだろうか、というものだ。COVID-19(新型コロナウィルスによる感染症)蔓延による経済の低迷に追い打ちをかける山火事という災難は「自動車が原因だ」と。
アメリカでもっとも自動車が売れる州であるカ州は、自動車を愛している州だと言える。しかし、前述の要因もあって「自動車嫌い」でもある。この愛憎半ばする感覚が、何かの拍子で「嫌い」という方向に振れると、カ州は自動車を嫌悪する。今回のトリガーはCOVID-19と山火事だった。筆者はそう考える。
いまこの時期にICE車販売禁止を宣言しても不審に思われることはない--ニューサム知事がそう判断するに足る理由はいくつかある。まず、2020年に入ってからの欧州でのBEVの売れ行きだ。新型車の投入が相次ぎ、COVID-19蔓延の最中にもよく売れている。じつはその背景はBEV/PHEVへの補助金大幅増額なのだが、販売台数が増えていることは事実だ。
間近に迫った大統領選挙も絡んでいる。トランプ大統領はオバマ前大統領が決定した燃費規制を撤回した。2025年までに1ガロン当たり54.5マイル、つまり22.98km/ℓという燃費規制がオバマ政権時代に決定されたが、トランプ大統領はこれを1ガロン当たり37マイル、15.6 km/ℓに後退させ2021〜2026年モデルまで適用することを決めた。カ州にとってはこれも気に入らない。だからトランプ落選を狙う。こういう動機も推測される。
アメリカでは、実際の規制値決定作業はNHTSA(National Highway Traffic Safety Administration=国家道路交通安全局)とEPA(Environmental Protection Agency)が共同で行なうが、オバマ規制の撤廃はトランプ大統領の指示だった。さらにトランプ大統領は、カ州に対し「大気浄化法第209条の適用除外権限を剥奪する」と宣言した。
大気浄化法第209条には連邦排ガス規制が定められている。これを遵守しなさい、と。しかしカ州は独自の規制を導入し第209条を無視している。これはアメリカの連邦制度のなかで認められた州の権利だ。しかしトランプ大統領は「勝手な規制はもうやめろ」と脅した。カ州はこれに反発し、連邦裁判所に提訴した。トランプ宣言が実施されるとカ州独自の規制を適用できなくなるためだ。現在、この件は係争中である。
いっぽうトランプ大統領は、カ州を敗訴に追い込む準備を進めている。さきごろ死去したリベラル派のルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事の後任に保守派の判エイミー・バレット女史を指名した(9月28日現在)。これが実現すると最高裁判事は保守派が6人、リベラル派が3人となり、もしトランプ大統領が再選を果たした場合には「思うがまま」の司法になる可能性が高い。カ州の提訴も却下される可能性がある。日本のニュースでは語られない本件も、カ州にとっては一大事である。
カ州は全米50州のなかで最大の自動車市場だが、自動車の大規模工場はひとつしかない。テスラ・モータースのBEV工場だ。もともとはGMとトヨタの合弁会社、NUMMI(New United Motor Manufacturing, Inc.)であり、テスラはトヨタとの提携時代に格安で工この場を譲り受けた。アメリカの自動車工場はミシガン州、イリノイ州といった五大湖周辺から南部のテキサス州、ミシシッピ州などへ移転が進んだが、おもな理由は安価な労働力と従業員への暖房費給付が不要なためだ。しかし、物価も地代も高いカ州は避けている。これを逆読みすれば、ICE車を販売禁止にしたところでカ州は州内の雇用に影響は出ない、ということだ。
次の大統領が誰になるかで、大きく変わる
前述の大気浄化法209条をカ州が無視し続けている点については、これまでの下院公聴会ではまったく歩み寄りの気配が見られず、1国2制度とも言える排ガス規制が存続する可能性のほうが高い。ただし、これも次期大統領がだれになるかで変わってくる。
つまり今年の大統領選挙は、2030年代に向けたエンジン開発にも影響を与える重要な選挙なのである。これはそのまま、自動車メーカーのパワートレーン開発は「政治の影響を受ける」ということの証明であり、この点は欧州もまったく同じだ。VWのディーゼルゲート問題以降、欧州では国ごとでもEU議会議員でも環境保護派が台頭した。まっとうな議論より「大企業憎し」が先行し、良識派の議員も「行き過ぎた電動化」を避難しづらくなった。同時に官僚も暴走している。
EU委員会は知恵者の集団であり、EUが求めるだけの数のBEVを揃えるためには中国、韓国、日本の電池メーカーにお金を支払わなければならないということを彼らは認識している。電動モーターに使われる希土類がUE域外に依存していることも知っている。コンゴでの年少者就労コバルト発掘問題に代表されるような、EUが言うところの「フェアトレードに反する」事例がBEVには少なからず付きまとうことも知っている。
しかし現状では、こうした懸念をすべて見て見ぬ振りをしなければならないない状況である。さらに言えば、10年後に直面するだろう廃棄バッテリーの再資源化は、中国企業のバッテリー安売り攻勢が続くかぎり採算化はほぼ絶望的だ。EU委員会が懸念を示してもEU議会は自動車のオール電動化を志向している。
旧知のアメリカ人ジャーナリストからの伝聞を紹介する。
「トランプ大統領はバカではない。科学顧問も抱えている。パリ協定からの離脱は彼なりの判断であり、じつはアメリカにも声に出せないCO2悪玉論慎重派はかなりいる。研究者や科学者の間にもいる。疑わしきを罰し、そこに巨額の資金を注ぎ込むことは、ビジネスマンとしてのトランプ大統領にとって許し難い行為であることは間違いない。同時に、中国の習近平政権との関係を深めていたドイツなどに対しても反感を抱いている。フランスのマクロン政権も好きじゃない。EUの産業界は脱アメリカを志向している。科学的根拠と嫌悪感のブレンドがトランプ大統領のパリ協定離脱だ」
このつづきは、いずれまた。