前編では、古代から続くとされてきた「オオカミ信仰」が、実は近世から現代にかけて徐々に出来上がってきた新しいものであることを解き明かし、一方で日本の民間信仰には、より古い犬神・白い犬・大山祇神の眷属という三つの側面が見られることについて触れました。
後編では、近世以降に広まったオオカミ札の流行とニホンオオカミ滅亡の関係性、そして「イヌ」という名から解き明かせる「戌の日」の安産祈念について解説します。
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オオカミ信仰はあった?なかった?日本人とオオカミ、その過去と未来【前編】
オオカミ駆除の隆盛こそがオオカミ信仰の起源だった!?
日本人が歴史的にはさほどオオカミを意識してこなかった、と言われると、オオカミを愛する現代の多くの人から、異論や反論があるかもしれません。
けれども実際、東北で行われてきた「オオカミ祭り」こと「オイノ祭」(オイノは『御犬』の意味)とは、オオカミを崇拝する祭りではなく、オオカミ被害が特に多かった東北において被害を減らし、祟りを鎮める目的で行われていたもので、信仰とは言い得ません。
『遠野物語』(柳田国男 1910年)にも、いくつかオオカミに関する伝承が記載され、村人が山の洞穴でオオカミの子供を見つけて殺したところ、それからその村をオオカミが襲い馬を殺すようになり、オオカミ対村人の凄惨な戦いが始まる話で、ここには当時の人々のオオカミへの仕打ちや、オオカミを賢いが復讐心や執着心が強い恐ろしい生き物と見らていたことがわかります。
埼玉県秩父市の三峯神社や東京都の武蔵御嶽神社など、オオカミを「大口真神」として描いた御札を害獣、火災などの災難除けとするオオカミ信仰があるではないか、と言われるかもしれません。しかし「オオカミ信仰」で最初に名が上がるほど有名な三峯神社の歴史は比較的新しいものです。
18~19世紀には各地でオオカミ被害が頻発し、全国の各藩が「狼落とし」なる落とし穴でオオカミを捕殺していたことが記録に残っています。江戸時代の農村には害獣駆除のために申請登録された鉄砲が何挺か保有されており、巣穴に煙を焚いていぶり出し、鉄砲で狙って撃ったようです。こうしてオオカミ駆除が盛んになると、オオカミの遺骸から頭骨や牙、毛皮などを、他の草食害獣除けのまじないとして利用するという発想が生まれました。もともと犬神が獣霊の憑き物落としや獣害に効果がある(四国を中心とした犬神呪法)という信仰が素地にあるものですから、修験者や願人坊主(正規の僧侶ではなく、僧侶のいで立ちで放浪する大道芸人)が、オオカミの骨や毛皮、オオカミ絵札を各地で売り歩いて商売としたのが、いわゆる「狼札」の由来とされています。
私たちが「オオカミ信仰」としているものとは、実際にはオオカミの駆除を基礎にした経済活動の副産物だったのです。
明治時代に入り、オオカミや野犬の駆除はさらに激化しました。鎖国から貿易開放となり、外貨を稼ぐ自国産業として、絹糸や自生ユリなどとともに、日本列島の野生動物の毛皮が輸出品として注目され、大々的な野生動物の捕殺が行われたことに端を発します。西洋からのより性能の高い銃も普及しましたし、高い値で買われるために民間の捕殺も増えました。日本中にいたニホンカワウソは、それによって絶滅しましたし、大型獣の鹿の毛皮は特に集中的に求められ、大量に捕殺されました。北海道でのエゾシカ狩猟は苛烈なもので、明治五年から十三年の8年間で、40万頭ものエゾシカが狩猟され、輸出されました。
それまでエゾシカを狩っていたエゾオオカミや野犬にとってこれは死活問題で、彼らは開拓使により設営された畜産農場の家畜を襲ったのです。これにより、人間は毒薬や鉄砲、ワナなどを仕掛け、高額な報奨金を拠出して徹底的なオオカミ狩りを行いました。こうしてエゾオオカミは、19世紀末には絶滅してしまいました。エゾオオカミ駆除のノウハウは、内地にも持ち込まれ、エゾオオカミ絶滅から10年も経たないうちに、ニホンオオカミも全土から絶滅してしまいました。
なぜ「戌の日」に腹帯を巻く?謎の安産祈願の本当の意味
オオカミ信仰幻想を一つ一つ取り剥がしていきますと、日本人がオオカミを含めた「イヌ」というものをどう捉え、習俗信仰の中に組み込んできたかの素の有り様が見えてきます。
前編で短く触れた、オオカミ(イヌ)を眷属とし、使役する大山祇神(おおやまつみのかみ 大山津見神とも)。
その生成譚にはいくつも異伝がありますが、『日本書紀』神代上第五段の一書第七では、火の神軻遇突智(かぐつち)の出産で、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が大やけどを負ったことに怒った伊弉諾尊(いざなきのみこと)が軻遇突智を三つに切り裂いた際、頭が雷神(いかづちのかみ)、胴体が大山祇神、下半身が高龗(たかおかみ ※龗は龍の意で水神)となった、とされています。
この神話で、大山祇神が雷神・水神とともに生まれていることは示唆的です。火山の噴火が雷雲を起こし、天から降り注ぐ雨が山に降り落ちて水源(龍の棲み処)となるダイナミックな自然の営み、天象・水象を神格化したものと考えられます。
全国の山住神社、三島神社など、大山祇神を祀る社の総本社とされる伊予国一の宮で愛媛県今治市の大山祇神社では、摂社に雷神と高龗神とを祀り、この三柱の関係の深さをうかがわせます。奈良県桜井市の三輪山の神を見てわかるとおり、山の神とは蛇神、龍神であり水神でもあるのです。龗(おかみ)と狼(おほかみ)の音の共通性にもご注目ください。
「妊娠五か月目の戌の日に腹帯(岩田帯)を巻いて安産を願う」という有名な日本独特の風習は、起源が謎とされています。安産や子供の守り神は古来、水天宮などの水神社、子安観音や地蔵菩薩などで、ぱっと見て犬・オオカミは結びつきそうもありません。犬は子沢山で安産だからあやかるため、とか「戌の日はおめでたいから」といった説明がされることが多いのですが、十二支には他にもネズミやウサギなど、犬よりもはるかに多産で安産の動物がいますから、これは後付けの俗説でしょう。また、「戌」という文字は「滅ぶ」を意味し、季節では真冬直前の晩秋から初冬にあたります。出産という慶事にとって、ふさわしい意味とは思えません。
しかし、大山祇神が水神の性質も包含していることを知れば、関連性が見えてきます。愛知県名古屋市西区にある伊奴(いぬ)神社は、全国的にも「おいぬ様」の神社として有名ですが、祭神に高龗神が見られますし、主祭神である伊奴姫神(伊怒比売とも)は、大山祇神の子供である大年神の妃です。イヌ信仰の在るところ、大山祇神が必ずあるのです。
関東地方周辺には広く「犬供養」という習俗があり、飼い犬や身近な野良犬などが難産で死んだり死産だったりすると、卒塔婆を立ててイヌの魂を供養し善徳を積むことで、人が出産の際に安産となるという信仰がありました。おそらくこのような風習が「戌の日の腹帯」に関連はありそうです。
「犬供養」に見られる、イヌが死ぬと世話になった飼い主に福をもたらす、というモチーフは、古来多く知られています。「花咲か爺」は中でも、もっとも有名なものでしょう。『今昔物語集』(平安末期 作者不詳)の巻第二十六に所収された「参河国始犬頭糸語」もその一つで、平安時代に参河国(三河国とも 現在の愛知県東部)で租税である調の献上物として納められた名産である絹糸「犬頭糸」の、名の由来を語ったもので、
夫から冷遇されるある女が、稼業である養蚕もふるわず、たった一匹残った蚕も飼い犬の白いイヌが食べてしまった。嘆いていると、その犬の鼻から白い糸が伸び出てきて、竿に手繰り寄せると世にも美しい絹糸が巻き取られた。糸が全てなくなるとイヌが死んでしまったが、イヌを桑の木の元に埋葬すると、その白い絹糸と同じような質の良い絹を吐き出す蚕が育ち、女は富貴となった。
というものです。死ぬことで人に福徳をもたらす、これらの不思議なイヌの正体は何なのでしょうか。
「イヌ」の名を探ることで、幸せの白い犬が何者かが見えてきた!
ところで、日本語で犬を意味する「いぬ」とは何が語源となっているのでしょうか。現在の仮説は、「すぐいなくなるからいぬ(去ぬ)」などの説しかなく、基本的に語源は謎とされています。
日本語の基層言語の一つとされるアイヌ語では、犬は「セタ(もしくはシタ)」と言います。お隣の朝鮮語では「ケ(개)」で、これは日本語の「犬」の音読み「けん」のほうに近い音です。中国語では狗/犬は「ゴゥ」で、この音が清音化して、朝鮮語や日本語の「ケ」「ケン」になったのでしょう。
一方、沖縄の琉球語では犬は「いん」と言います。これは日本語の「いぬ」とほぼ重なります。
日本語はオノマトペ(擬音語)が極めて豊かな言語です。名詞や形容詞や副詞、動詞にも擬音語から発生した単語が多く見られます。アイヌ語の「セタ」は、セハセハとせわしなく呼吸しタタタタと駆けよる、イヌという動物の騒々しくも愛らしい様をよくあらわした音です。ゆえに、先史時代の日本語のイヌを表す言葉は「セタ」だっただろうと推測ができます。現在でも東北のマタギは連れ歩く猟犬を「セタ」と呼びます。
とすると、それとはまったくかすりもしない異質な「いぬ」(琉球語のいん)という名はどこから来たのでしょう。
エジプトの冥府の神・アヌプ(ギリシャ名ではアヌビス)は狗頭人躯の神です。エジプトの古語では、イヌのことを「インプ」と呼びました。西の最果てのエジプトの言葉が日本語になるとは考えにくいかもしれませんが、以前にも当コラムで小正月行事「どんど焼き」は、エジプトの太陽信仰から生じた不死鳥伝説が日本に伝わったものであると解き明かしました。(不死鳥は炎とともに空高く・小正月行事「どんど焼き」の深層とは《後編》)
「アヌプ/インプ」と「イヌ/イン」というエジプト語圏と日本語圏の音の共通性は見過ごしてよいレベルではないように思います。そして「いぬ」という名称は、東アジア文化圏において異質で、他に起源を求められないのです。
古代エジプトといえば、有名なツタンカーメン王に代表されるように、死後の復活を願い、ミイラ作りが盛んでした。初期王朝時代にはじまったミイラ文化は、新王国時代(BC15~10世紀ごろ)には、「死者の書」と名付けられたツリン・パピルス文書が多く記録され、祭礼の作法と死者の辿る道程についての思想が明示されました。死者は来世、西の果てにあるオシリスの支配する楽園アールウに復活しますが、その際、生前の肉体がないとそこにたどり着けないとされたのです。そのため肉体を腐敗しないように保存されたものがミイラです。このミイラづくりの神こそが冥府の神・アヌプだったのです。処理が施された遺体は、最終的にアヌプ役のミイラ職人によって白い麻布を巻かれて安置されます。
戌の日に巻くさらしの白い岩田帯、そして犬頭糸の物語の蚕の繭玉を思い出すと、ミイラに巻く白い麻布と似ています。麻布にくるまれて再生を待つミイラは、まさに繭玉の中のサナギに重なります。
白とは、五行思想では西方をあらわし、守護獣も白虎です。死装束は白ですし、現在では喪服は西洋の影響で黒ですが、かつては葬儀参列者も皆白を纏いました。貴人の出産に際しても、立ち会う者たちは皆白装束でした。現世という「生の国」から出入りするときには呪術的に白が用いられたのです。
そう理解しますと、前編で紹介した日本書紀と古事記の日本武尊(やまとたける)が、山の神が変じた「白い鹿」に激しく動揺した理由もわかりますし、亡くした恋人を思い出して嘆いた意味も通ります。ノビルの実が当たった程度で死んでしまう鹿は、まさに武尊に「死」を見せつけ、怯えさせることを目途としていたわけです。そしてこのとき、遭難しかけた武尊を救うのは「白い犬」なのです。生と死のあわいの際どいシーンで、武尊を死に導くのも生還へ導くのも「白い」動物だったのです。死と福徳という対極的とも思える(ただし、信仰の世界では浄土と楽園は重なりますから矛盾はしていません)贈り物を携えて現れるのが「白い動物」「白い犬」だったのです。
現在、アメリカなどでの成果を受けて、食害をもたらす増えすぎた草食野生動物の抑止のために、オオカミを山に復活させよう!という運動もあるようです。その効果についてはともかく、イヌを、人を援ける良き動物と考えてきた歴史を見ますと、オオカミを含めたイヌ属と人間との、よりよき関係を考えていくことは必要なことではないでしょうか。
(参考・参照)
産育習俗語彙 柳田国男 国書刊行会
遠野物語 柳田国男 新潮社
古代エジプトの物語 矢島文夫 教養文庫
おいぬ様
和漢三才図絵 獣類
古代参河国と犬頭糸・白絹
犬にゆかりのある2つの神社|岡崎ルネサンス