前回は被災当時に自分の身の回りに起きた出来事を紹介させていただきましたが、今回は生活が落ち着いてから、10年後の今日に至るまで、私自身が日本気象協会の気象予報士として、防災にかかわる立場として、被災地の変化をどのように見てきたのか、触れたいと思います。
何が起きていたのか 巨大津波の痕跡をこの目で確かめる
震災後、生活が落ち着いてから始めたことがあります。それは、自分の足で被災地をまわり、いったい何が起きていたのかをこの目で確かめることです。震災から10年後の今日に至るまで、岩手県の久慈以南から福島県のいわきまでの海岸線はほとんど見てまわりました。そこにあったのは自分の想像をはるかに上回る巨大津波の威力でした。
写真の南三陸町防災対策庁舎では、屋上に避難した多くの町職員が津波に流され亡くなりました。助かったのは、風向風速計やアンテナが取り付けてある支柱によじ登った僅かな人たちだけでした。最後まで防災無線のマイクから避難を呼びかけて亡くなった女性職員のことが思い出されてなりません。
陸に上がった漁船 「第18共徳丸」
こちらは、報道などで目にした方も多いと思いますが、「第18共徳丸」です。この船は、福島県いわき市の船会社に所属していましたが、気仙沼港に寄港している際に被災、湾奥の鹿折(ししおり)地区まで流されたものです。よく見ると、船体に焦げた跡が確認できます。津波で気仙沼湾に流出した船舶用の重油に火が付き、湾全体に燃え広がりました。その影響とみられます。当時、陸上自衛隊ヘリからの映像が、ライブで流れ衝撃を覚えた方も多かったのではないでしょうか。横の信号機の高さと比較することで、陸上にあることの不自然さが、より際立っています。震災遺構として残す議論もありましたが、街中にあることで復興の妨げになること、所有者の意向もなどあってその後解体されました。
四階建てビルが横倒し「江島(えのしま)共済会館」
女川町にあった「江島(えのしま)共済会館」です。世界の津波被害史上恐らくはじめて鉄筋コンクリート建築が地下部分のパイルごと引き倒された(パイルがぶらさがっているのが確認できる)というもので、学術的にも注目されていました。津波の破壊力を知らしめるという意味では、随一といえるでしょう。ただ、こちらも後日解体されています。なお、後方には高台が見えています。大人の足で2~3分程度のところに高台があったにも関わらず、津波によって多くの命が失われた地域を、この目で数多く見ました。前回の記事で触れた「正常性バイアス」の問題を含めて今後も防災を考える上では、避けることのできない問題といえるでしょう。
恐るべき津波の高さ 四階まで打ちぬかれた「雇用促進住宅」
陸前高田(りくぜんたかた)市は、気仙沼市と大船渡市のおおむね中間にあります。ここは、南に開いた広田湾の湾奥にあり、市街地は高さ10~15mの津波で壊滅しました。7万本を誇った「高田松原」がすべて流出し、その後復興のシンボルとなった「奇跡の一本松」だけが残ったのは有名な話です。この旧雇用促進住宅は一般には公開されていませんが、国道45号沿いから今もその姿をみることができます。四階まで打ちぬく津波の高さに、ただただ息をのむばかりです。
「第18共徳丸」や「江島共済会館」など、10年後の今日に至るまで、被災地では数多くの震災遺構となりうる構造物が解体されて消えました。被災自治体にとっても、これら災害遺構の問題が重荷になっていたのは間違いありません。被災者の心情など、熟慮を重ねたうえでの結論であり、やむを得ないものでしょう。
先人の教えを守り 犠牲者を出さず 姉吉の「大津浪記念碑」
震災遺構とは少し意味が違いますが、岩手県の重茂(おもえ)半島姉吉にある「大津浪記念碑」です。今回の震災で有名になりましたが、私自身、存在は津波史研究家の山下文男氏(故人)の著書等で以前から知っていました。姉吉集落は、本州最東端、魹ヶ崎(トドヶ崎)の近くにあります。1933(昭和8)年の三陸大津波被災後に建てられました。
高き住居は児孫に和楽
想へ惨禍の大津浪
此処より下に家を建てるな
明治廿九年にも昭和八年にも
津浪はここまで来て部落は全滅し
生存者僅かに前に二人、後に四人のみ
幾歳経るとも要心あれ
碑文には、ここより下に家を建てるなということ、明治と昭和の大津波では、集落が全滅したことなどが書かれています。この石碑とは別に、東日本大震災の津波の到達点を示す新しい石碑が約50m海側、標高差にして10mほど低い所にありました。地形図によると標高で40mほど遡上したことになります。石碑から先は姉吉漁港に下りていきますが、民家は建てられていませんでした。住民は先人の教えを守り、この地区では東日本大震災の津波の犠牲者を出さなかったと聞いています。
「復興」は「復旧」にあらず
東日本大震災の被災地の中には、震災直後からどんどん津波の浸水域に水産加工施設などが建設され、復旧が進んだ所もありました。果たして、これは手放しに喜んでいいものなのでしょうか。三陸沿岸では1896(明治29)年に2万2000人、1933(昭和8)年に3000人、そして東日本大震災の2万人と、1世紀ちょっとの間に約4万5000人もの尊い命が津波で失われています。このほか1960(昭和35)年のチリ地震津波でも大きな被害が出ました。世界中見渡しても、これだけ津波危険度の高い地域は他にありません。インフラが整備された現代で、戦後最大の人的被害が出たことも踏まえ、復興はどうあるべきか考える必要があります。
明治と昭和の津波の直後には多くの集落で高台移転が計画されたものの、住民の合意は困難を極め、頓挫→現地再建(復旧)→再被災の歴史が繰り返された所が少なくありません。危険とはわかっていても「なりわい(漁業)」を優先せざるを得ない地域の実情もありますが、改めて「復興」は、「復旧」ではないことを肝に銘ずる必要があります。
東日本大震災のような巨大津波はいつの日か必ず再びこの三陸の地を襲います。また、今後想定される南海トラフ巨大地震の被害想定域でも同様です。今を生きる私たちだけのためではなく、悲劇を繰り返さないように子孫に伝える義務があります。そのことを絶対に忘れてはなりません。
10年の歳月が流れて
あれから10年の月日が流れました。被災地の姿も大きく変わりました。当時、私が被災した塩竃市でも、遅れていた再開発事業がようやく形になりつつあります。写真の、左手の高い建物が壱番館。右側の重機がある所の更地が以前実家のあった場所です。
塩竃市は、ほかの壊滅的被害を受けた地域に比べて、被害は比較的軽微だったため、防潮堤やかさあげなどハード面の対策はほとんど採用されず、現地再建(復旧)の手法がとられました。塩竃市における今回の津波の浸水域(写真下)が、ほぼ江戸時代の海岸線に沿って広がっていたことを考えると、長い月日が経てば再び同じような被害を受けることになります。その点に留意する必要があります。
この10年の間にも、地震、津波だけではなく、台風、豪雨など自然災害は形を変えて、日本列島を襲いました。この国に生きるということは、自然災害に向き合いながら生きるということです。私自身も、日本気象協会の気象予報士として、緊迫した多くの場面で、情報発信に携わった経験、そして震災の被災者としての経験を今後に生かしていきたいと思います。