9月9日は、古くは『日本書紀』に、天武帝の世の685年から宮中行事として記録される伝統ある重陽の節供です。江戸時代には、重陽の日(現代で言えば10月初旬から遅くて下旬頃)に、古来キクの花びらを浮かべた酒「浮菊/ふきく」を酌み交わすなど、キクにまつわる慣わしが多く伝わり、「菊の節供」として重んじられていました。
現代では、長崎くんちや唐津くんちなど、九州で「おくんち」としてかたちを変えて受け継がれてはいるものの、「節供」としては「ひな祭り」「端午の節供」「七夕」などと比べるとマイナー感はいなめません。しかし今は老成に基づく智恵や穏やかな共生の模索へと価値観がシフトしつつあります。軽視されてきた「重陽の節供」もまた、見直されるかもしれません。
伝説の「長命超人」はキクを食べていた?
重陽の日、古くは茱萸(グミ)の実を入れた茱萸袋を贈って互いに健康長寿を願いあったり(本来中国ではミカン科の生薬である呉茱萸=ゴシュユの実を赤い袋に入れ、菊花を漬け込んだ薬酒とともに一族で眺望のよい場所に上り、これを服して長寿と繁栄を祈るものでしたが、日本にゴシュユがなかったため、グミと取り違えられ、そのまま定着してしまいました)、また西日本では、家来衆の人形や道具は出さず内裏雛の二体のみで控えめに飾る「後の雛」と呼ばれる風習もありました。農家や町民の間では、この頃に成熟するクリを炊き込んだ栗飯を食べて祝う風習もあり、「栗の節供」とも呼ばれていました。しかし、重陽の主役は何と言ってもキクの花でしょう。
9月9日にキクの花びらを浮かべた酒を飲んで長寿を祈願する「重陽の節供」は、後漢時代(1~3世紀)には既に行われていた、きわめて歴史の古い儀礼です。キクと長寿との関連はさまざまありますが、『列仙伝』(後漢時代頃)にも記載が見られる仙人彭祖(ほうそ)もその一つ。彭祖は中国神話の五帝の一人・堯帝の時代に生まれ、以降舜、夏、商(殷)、周の王朝を齢800歳近くも生きぬいたと伝わり、七福神の福禄寿と寿老人のモデルでもあるいわば長寿のシンボル。この超人の実践していた数々の養生法、飲食術に、キクを薬として常用していた、というものがあったのです。
また、唐時代の類書『芸文類聚』(624年)の「菊」の項目に記載された故事に「菊水伝説」があります。
中国の中東部・河南の酈(れき)という地方に流れる川の源流には、無数のキクが自生し、菊花から零れ落ちた雫・露が集まり、谷川となって流れている。この谷川沿いの三十余軒の小さな集落、大夭(たいよう)に暮らす人々は、齢百を超える長寿の者ばかり。村人は菊花の雫が零れ落ちた谷川の水を常飲して、その生気を得ているためである。キクは百草の女王・神仙界のシンボルで、そのエキスを飲めば長寿不老の効能がある、としています。
こうした記載は日本の奈良~平安の王朝文化に強い影響を与え、貴族たちは菊水伝説に強い憧れを抱きました。こうして平安京遷都から間もない延暦16(797)年に宮中で催された曲水宴(ごくすいのえん)で桓武帝がキクを歌って以降、キク信仰は高まり唐風文化崇拝の帝とも言われた嵯峨天皇のキク偏愛から、宮廷、宮家のシンボルフラワーになってゆきます。
かわいらしい「着せ綿」をめぐるちょっと怖い王朝物語
平安期、宮中では重陽節の前夜、蚕繭から取った真綿(絹綿)をクッキーのような丸い形にしてキクの花にかぶせ、夜露でキクの香りがしみこんだものを、翌日取りあげてこの真綿で体を拭くという行事が盛んに行われました。これを菊被綿(きくのきせわた)といいます。健康や長寿の効能があるとされ、『枕草子』や『紫式部日記』にも記述が見られます。特に毒のある描写で人気の高い紫式部日記の記述は彼女らしさ全開で面白く、しばしば取りあげられるエピソードです。
寛弘5(1008)年重陽の日、紫式部のもとに藤原道長の正室・倫子(りんし)の使いの女官がやって来ます。女官は菊被綿を式部に渡し、倫子からの伝言を伝えます。「とり分きていとよう、老拭ひ捨て給へと、のたまはせつる(もう歳なんだからこの綿で老いをよくぬぐうようになさい、とのことです)」。これを受けて式部は「菊の露 若ゆばかりに袖ふれて 花のあるじに千代はゆづらむ(ちょっとおすそ分けされるくらいでけっこう。長寿の効能は高齢の貴女にこそ必要でしょうからお返しします)」と言い返そうと思って倫子をさがしたけれども見つからず悔しかった、というもの。紫式部は道長のお手付きの女房だったとも言われ、おもてむき雅なやりとりには、夫人と愛人との火花散る心理戦が秘められています。千年の昔から変わらぬ昼ドラの味わいです。
菊被綿は、現在でも一部の寺社で受け継がれていますが、「きせわた」という名はキクとは関わりのない野草に引き継がれています。シソ科メハジキ属に属する宿根草のキセワタ(着せ綿 Leonurus macranthus)です。同じシソ科で春に見られるオドリコソウに花は似ていますが、オドリコソウより草丈は高く、ピンク色の花弁や蕾はふわふわとした柔毛におおわれており、綿をかぶせたような姿が、名の由来となっています。花期はちょうど今頃、初秋の9月。北海道から九州までの肥沃な草地や山地に広く分布しますが、近年では自生は少なくなり、筆者も数えるほどしか遭遇したことはありません。山歩きの折などには、優雅な名を受け継ぐ美しい花を是非探してみてください。
イエギクとともに受け継がれてきた「野菊」の文化
広義のキク、つまりキク科は、世界中にあまねく分布し、数多くの属と種を有する草本類随一の大グループです。ヒマワリやタンポポ、コスモス、アザミ、ヨモギ、フキ、キンセンカ、ダリアなど、誰でもが知る花の多くがキク科に属します。
日本にも当然、在来のキク科植物は数え切れないほど自生しています。ですが今私達が花屋で買い求めたり、庭で育てたりする栽培種のキク、いわゆる「イエギク(家菊 Chrysanthemum morifolium)」は、中国中部に自生する黄色い花のハイシマカンギク(這島寒菊 Chrysanthemum indicum var. procumbens)をもとにした複雑なハイブリッドにチョウセンノギク(朝鮮野菊 Chrysanthemum zawadskii var.latilobum)をかけあわせ、5~6世紀の中国南北朝時代ごろに作出されたものだと推測されています。
日本のもっとも古い歌集である『万葉集』にはいわゆる「キク」を歌いこんだものは一つも記載されておらず、一方、万葉集にやや先行する時代の日本最古の漢詩集『懐風藻』(751年ごろ)には菊花が登場するので、当時は中国文化で愛でられたキクを漢籍を通じて知る程度で、実物は渡来していなかった、という仮説の根拠となっています。
時代が下り中世以降の武家社会が安定して平和な江戸時代になると、元禄期(17世紀末)ごろから直径30センチにもなる花弁の大輪菊や、矢車咲きや丁子咲き、ちぢれ咲きなどのさまざまな園芸品種が一気に作出され始め、園芸キングダムの一翼を担うようになりました。
江戸時代末期に日本を訪れたスコットランドのプラントハンター、R・フォーチュン(Robert Fortune)は、日本の園芸菊の多様さと美しさに仰天し、手に入る苗を大急ぎでかき集めてヨーロッパに送りました。この結果19世紀末のヨーロッパでは「キク・ブーム」が巻き起こり、多くのキク品種が生み出されることになります。フォーチュンは当時の東アジア各地をめぐっていますが、花を愛でる心は文化的成熟度の表れであり、その意味で日本という島国に暮らす人々は、上流階級のみならず市井の庶民の多くが花を慈しみ育てていて、ヨーロッパ人よりはるかに平均的民度が高いように見える、と述懐しています。
ちなみに「菊は万葉集には詠まれていない」という説明は、イエギクに関しては確かにそうなのですが、在来の野菊のたぐい、つまりシオン属(Aster)のヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどについてはきちんと「うはぎ(莵芽子 宇波疑 薺蒿 嫁菜)」として詠われています(ただし花というよりは、食用としたため春の若芽としてですが)。秋、荒地にパイオニア植物としてたくましく進出するハギ(萩)のように、春の野に元気に緑の芽を出す野菊を、「卯萩」と呼んだのかもしれません。
春日野に煙立つ見ゆ 娘子(をとめ)らし 春野のうはぎ摘みて煮らしも
(読人不詳 万葉集巻十 雑歌)
貴族に愛でられ、武家社会の安定とともに、絢爛豪華な仕立て菊文化を生んだイエギクとは別に、野菊の素朴な愛らしさを愛でる心もまた、日本のキク文化のひとつとして受け継がれてきたものです。今年もまた、田の畦や林の縁に、野菊があふれるように咲きそろう季節となりました。
(参考・参照)
植物の世界 朝日新聞社