今年も本格的な夏の暑さの前に通るべき関門、梅雨がやってきました。内も外も湿気が満ちて気分が晴れないこの時期が、米を主食にする日本人にとっては稲作の本格的作業初めの田植えに当たり、年間でも特に大切な時です。今回は、平安文学での梅雨の表現と、特に五月雨の和歌を中心にご紹介します。
長雨(ながめ)が文化も育む
私たちの住む日本では、冬以外の各季節に長雨の時期があります。しかし、代表はやはり梅雨でしょう。長雨は人々にとって室外での活動への妨げですが、特に梅雨は米作には欠かせず、適度な湿気は野山を潤して美しい自然を育み、漆器や木造建築をはじめ独特で優秀な日本文化を生み出してきました。
梅雨の表し方は、五月雨(さみだれ)というよりも、長雨(ながめ)の方が古く、万葉集では、「卯の花を朽たすながめ……」のように、初夏に白い花を咲かせる卯の花を萎らせる長い雨と詠まれます。
まず、五月雨の前に同じ時期の長雨に触れてみましょう。長雨の時を格別な時として記述するのが源氏物語です。
〈長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌み(ものいみ)さしつづきて、……御むすこの君たち、ただこの御宿直所(とのいどころ)に宮仕へをつとめたまふ。〉
これは、帚木(ははきぎ)の巻で、梅雨の長雨の時に、内裏での宿直役になった身分ある貴族の若者達がそれぞれの恋愛体験を語る、いわゆる「雨夜の品定め」の冒頭です。次は蛍の巻です。
〈長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。〉
ここでは、例年の梅雨より雨が降り続いて晴れがないので、手持ちぶさたを紛らわそうと、姫君達は室内での遊びとして絵や物語を楽しみに過ごしている様が描かれています。
この後に、光源氏が「日本紀などは、ただ片そばぞかし」と、堅苦しい歴史書など一面的に過ぎないと言って、物語の価値を述べる有名な物語論が語られます。
つまり、梅雨を長雨と言う時は、貴族達にとって室内での談論や絵、物語に遊ぶために最適な文化的時間だったと言えるようです。
では、同じ梅雨を五月雨と表した場合については、どうでしょうか。以下に見ていきます。
五月雨は重圧感ある背景
まず、源氏物語で、花散里の巻で冒頭近く、光源氏が花散里という女性を訪問する場面です。
〈このごろの残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ。〉
大体をたどると、まず源氏の現在の心が千々に乱れていることを述べ、その種(くさはひ)として花散里を思い出すと我慢できずに、五月雨の晴れ間に訪れるという文章です。しかし、物語の展開としては、ここで言う花散里という女性一人が源氏の悩みの種ではなく、政敵である右大臣の姫君である朧月夜(おぼろづくよ)との密かな恋の露見で追い詰められて、都から須磨に下る直前という状況での源氏の心境の描写と解すべきで、暗雲立ち込めるそうした状況を五月雨が象徴して、ここは、そのわずかの隙を突いた行動であることを示していると理解すべきだろうと思います。
源氏物語以外では、大鏡の、「花山帝による肝だめし」という話でも、五月雨が背景になっています。
〈花山院の御時に、五月下つ闇に、五月雨も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜、帝、さうざうしとや思しめしけむ、……「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。…まして、もの離れたる所などいかならむ。さあらむ所に一人往(い)なむや」と仰せられける〉
五月雨が怖くて寂しい帝の気まぐれな発案で、貴族達は五月雨がひどく降る(「過ぎて」は度を越えた意)不気味きわまる闇夜に、広大な大内裏の殿舎を各人離れて巡るというゲームに駆り出されます。結末は後に政権を握る藤原道長が大極殿の柱を削って戻るという剛胆さを示すのですが、五月雨と闇夜の効果が大きい話です。
これらのどれも夜の話ですが、枕草子の「五月の御精進のほど」で始まる章段では、昼の五月雨が描かれています。
「ついたちより雨がちに曇り過ぐす」日々ですが、時鳥を尋ねに行くため、五日の朝から、清少納言一行は牛車で賀茂の奥へと向かいます。御主人である一条天皇のお妃の藤原定子の縁者に当たる邸で時鳥の声を聞きワラビの馳走に与って、雨の中を御所へと大急ぎで戻りますが、和歌も詠まず帰ったことを御主人に責められ、慌てたところを、「かきくらし雨降りて、神いと恐ろしう鳴りたれば、物もおぼえず、ただ恐ろしき」と、空が真っ暗になるほど大雨が降り、雷まで恐ろしく鳴って、わけもわからず、ひたすら恐ろしかったという騒ぎに取り紛れるという展開の話です。
ここでは、夜の闇の不気味さはありませんが、話の中の喧噪感や慌ただしさに対して、降り続けて雷まで鳴るという五月雨が効果的に描かれています。昼と夜では同じ五月雨でも、かなり違う印象ですが、どちらも大変に濃密な尋常ならざる時間だという点では共通しているように思います。
同じ梅雨でも、長雨と五月雨では表現世界が大きく異なっていました。掲げたものは散文作品ばかりで即断はできませんが、長雨の用例は外部と隔絶された室内空間での、落ち着いて充実した時が描かれ、五月雨は室内外にかかわらず、ある種の濃密さがあり、厳しさや激しさに包まれた空間を印象づけているように思います。ただ、長雨という語は、必ずしも梅雨の時期だけに限りません。また、和歌では「眺め」という掛詞もあって、なお丁寧な考察が必要ですので、改めて別に考えることにしたいと思います。
五月雨の表現について続けて見ていきましょう。
五月雨の和歌、出発
五月雨を詠んだ和歌を、三代集の夏部から古今集・後撰集・拾遺集の順で挙げてみます。
〈五月雨に物思ひをれば時鳥 夜深く鳴きていづちゆくらむ〉
〈五月雨の続ける年のながめには 物思ひあへる我ぞわびしき〉
〈時鳥をちかへり鳴けうなゐ子が 打ち垂れ髪の五月雨の空〉
一首目は、五月雨の降り続く中で物思いをして過ごしてきた夜更けに、時鳥が鋭い声をあげて飛び去ったというもの。二首目は、五月に閏月(うるうづき)があった時の歌で、「ながめ」が長雨と眺めの掛詞となっています。この眺めは眺望ではなく、思いに耽ってぼんやり見ている意です。二ヶ月も五月雨が続いている年の長雨での虚ろな思いでまなざしを向けても、物思いが尽きない自分が悲しいよ、というもの。三首目は二句切れの倒置で、三・四句目は幼児の髪を垂らしてうなじでまとめた髪型を言い、その髪の乱れのような五月雨(さ・みだれ)の空で、時鳥に繰り返し鳴けと命じたものです。
これらでの五月雨の詠み方をみると、時鳥と物思いが一緒に詠まれることが多いようです。時鳥の鳴き方が、深夜に悲痛な叫びを一声挙げるというイメージであることは、以前の記事で記しましたが、その時鳥には作者の心の投影が感じられ、背景の五月雨は、闇の中で乱れ降る情景を想像させます。
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五月雨の和歌、展開
五月雨の和歌は、後拾遺集の夏にある、平安時代後期の歌人相模の和歌で大きな転換が見られます。
〈五月雨は美豆(みづ)の御牧の真菰草(まこもぐさ) 刈り干すひまもあらじとぞ思ふ〉
この歌は、現存範囲内で五月雨を最初に歌題とした、長元八年(1035)の歌合で出され、「時、折節に従ふとて勝つ」とされ、藤原清輔という院政期の歌人の著作「袋草紙」では、「この歌講じ出づるの時、殿中鼓動して郭外に及ぶ」という大反響があったと記されています。美豆の御牧は、京都市伏見区美豆町から久世郡久御山町にかけてあった朝廷の牧場で、屏風にも描かれた名所らしく、夏に刈り取って筵(むしろ)を編んだり、粽(ちまき)を巻く真菰が繁茂している低湿地でした。
この歌が当時それほど驚愕をもって迎えられた理由は何でしょう。それは、先に挙げた三代集(古今集・後撰集・拾遺集)の五月雨詠に登場する時鳥や物思いが関わらない、ひたすら雨に降り込められ、刈り取ることのできない真菰が濡れ尽くした牧場の情景を詠むのに徹しているためだと思われます。人の情感が第一で、自然もそれに従うという、従来の詠法とは明らかに異なる和歌の価値が認められた瞬間だったのでしょう。
以後は相模に倣った五月雨詠が続くことになります。
〈五月雨は日数経にけりあづまやの 茅が軒端の下朽つるまで〉
〈五月雨に水まさるらし沢田川 槙の継ぎ橋浮きぬばかりに〉
一首目は、五月雨が降り続いて、田舎屋の茅葺きの軒端の下部が濡れて腐るほどだというもの。二首目は、降り続く五月雨で水量が増した沢田川では、板を継いで作った橋が浮くほどだというものです。この二首は、ともに後拾遺集に次ぐ金葉集に載せられたもので、その発想は相模の歌を基とします。
しかし、平安末になると、再び五月雨詠に古今集以来の時鳥や人の思いを詠むようになります。
〈五月雨は焚く藻の煙うちしめり しほたれまさる須磨の浦人〉
〈ほととぎす雲居のよそに過ぎぬなり 晴れぬ思ひの五月雨のころ〉
一首目は千載集にある藤原俊成の作で、須磨の浦に住む侘び人が、藻塩を焼く煙が五月雨で湿るのに合わせて悲しみ萎れていると詠んでいます。二首目は新古今集の後鳥羽院の作で、空高く鳴いて去る時鳥を聞く人の、五月雨に合わせた憂いのある思いを詠んでいます。五月雨の中にいる人物の叙情性が復活していると読み取れます。人と自然の調和を取り戻そうとしているようにも思えますね。
雨が続くこの時期、現代でも人々は様々な思いに誘われることと思います。物思いの種が取り払われ、明るい青空が戻る日が待ち遠しいですね。
《参照文献》
王朝びとの四季 西村亨 著(講談社学術文庫)
袋草紙 藤岡忠美 校注(岩波書店 新日本古典文学大系)
歌ことば歌枕大辞典 久保田淳・馬場あき子 編(角川書店)
源氏物語・枕草子・大鏡(小学館 新編日本古典文学全集)