「里の秋」は、太平洋戦争直後の混乱期、昭和20年12月の年の瀬に、外地からの引揚者・復員兵を励ますために作られ、ラジオで発表された楽曲です。以来時代を超えて、しみじみとした日本の秋の愛唱歌・抒情歌として、「赤とんぼ(作詞・三木露風 作曲・山田耕筰)」や「ちいさい秋みつけた(作詞・サトウハチロー 作曲・中田喜直)」などとともに、日本の歌百選(2006年選定)に選ばれています。
昭和62(1987)年の9月20日。「里の秋」の作詞者、童謡詩人で教師だった斉藤信夫は、故郷・房総の山里が秋の実りの色に染まる頃、この世を去りました。
終戦の年の瀬。労苦を浄化するようにその曲は生まれた
里の秋
しずかなしずかな 里の秋
お背戸に 木の実の落ちる夜は
ああ かあさんとただ二人
栗の実煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き 夜鴨の渡る夜は
ああ とうさんのあの笑顔
栗の実 食べてはおもいだす
さよならさよなら 椰子の島
お船に揺られて 帰られる
ああとうさんよ 御無事でと
今夜も かあさんと 祈ります
(引用:里の秋)
日本が太平洋戦争に敗れて四ヶ月経った初冬、国営放送NHKは、戦地・外地(旧属国領)からぼろぼろになって引き上げてくる復員兵や一般人を出迎えるための「外地引揚同胞激励の午后」というラジオ番組を企画しました。番組内で、引揚者たちを慰労し、歓迎する歌を流したい、と童謡作曲家で児童歌唱団の主宰をしていた海沼實(かいぬまみのる)は依頼を受けます。
そして昭和20年の12月24日、出来立ての楽曲が、当時小学五年生で海沼實の師事を仰いでいた童謡歌手・川田正子の新曲としてライブでオンエアされます。
歌が終わるとスタジオは一瞬水を打ったように静まり返り、次にスタジオ中に感動の嗚咽と万雷の拍手が響き渡った、と伝わります。直後から局中の電話がいっせいに鳴り出し、「今流されたのは何という歌か」「もう一度聴きたい」というリスナーからの問い合わせが殺到します。ひとつの歌にこれほどの反響があったのは、NHK開局以来のことだった、といわれます。作詞を担当した斉藤信夫の情緒溢れる歌詞、海沼實の哀切でハートフルな曲調、川田正子の凛としてけれん味のない歌唱。不朽の名曲「里の秋」が誕生した瞬間でした。
「里の秋」はこの後、1946年から始まる「復員だより」のテーマソングとなり、毎日ラジオから流れることになりました。戦後の瓦礫の中で散り散りになった家族の行方をさがす尋ね人はあふれ、ハイパーインフレ、物資不足と向き合わねばならなかった混乱期の国民の傷ついた心を浄化するように染み渡り、誰もが知る抒情歌になっていきました。
「星月夜」から「里の秋」へ……一編の詩を変転させた時代のうねり
作詞者・斉藤信夫は明治44年、千葉県山武郡成東町南郷村五木田(現在の山武市五木田)の農家に生を受けました。千葉師範学校(現・千葉大学教育学部)を卒業し、小学教員の道に進みます。同時に中学生の頃からひそかに童謡作家となる夢も抱いており、一日一作を自らに課していたそうです。小学校の教師をしつつ、熱心に児童文学誌を読み、研鑽に励む中、昭和12(1937)年ごろ、長野県から上京し、東京・小石川区護国寺(現在の文京区音羽)で児童合唱団「音羽ゆりかご会」を創設して子供たちの音楽指導をしながら童謡の作曲を手がけていた海沼實に注目します。斉藤は海沼を訪ね、以降これと思う作品を仕上げると郵送で送るという交友が続きました。そして昭和16(1941)年12月8日、日本軍によるハワイ真珠湾の急襲で日米戦争の火蓋が切られることとなります。その報を聞いた斉藤は、興奮と感激のまま「星月夜」なる戦争鼓舞の童謡を書き上げ、海沼に送ります。これが、「里の秋」の原型で、一番、二番はそのまま、三番、四番では「父さんの武運を祈ります」四番では「僕だって必ずお国を護ります」と兵士になる決意が歌われているのです。
しかし、「星月夜」のようなセンチメンタルな歌は出征兵士に里心がつき、士気をそぐために国の厳しい統制を受けて発禁になっていることを海沼は知っていて、この詞を放置しました。
そして四年後終戦を迎えます。終戦を機に斉藤は、国民学校で子供たちに神州不滅(神の国である日本は決して滅びないとする思想)を教え込んでいた自身を深く悔い、教員を辞職してしまいました。求職活動をしながら相変わらず童謡の詩作を続けていた斉藤に、海沼から「スグオイデコフ」との電報が届きます。赴いた斉藤に、海沼はNHKからの「外地引揚同胞激励の午后」で流す新曲に、以前送付された「星月夜」を詞として使いたい。けれどもこのままでは三番、四番は使えないから、一番、二番を生かし、それに加える三番の歌詞を、新たに作ってはもらえまいか、というものでした。期限は一週間。皇国思想に燃えていた過去の自分の書いた詞と一週間暗闘した挙句、その時代との決別の意味をこめた「さよならさよなら」を冒頭にした三番が完成します。急ぎ歌詞を届けた斉藤にタイトルを「星月夜」から「里の秋」に変えること、二番の「星の夜」を「星の空」に変えることを提案し、受け入れられたことで、「里の秋」はようやく完成したのです。
戦意高揚の歌が、戦争に傷ついた人々を癒し、平和で平穏な世の中の訪れを告げる歌へと、劇的に変容したのでした。
斉藤信夫が願ったもうひとつの「里の秋」
それにしても、開戦の報に感激し、高揚して一気に書き上げた、という「星月夜」にはどこか違和感を感じます。たしかに「里の秋」で改変された際に削除された三番、四番には子供たちを鼓舞する歌詞を作ろうという斉藤の意思はよく表れています。が、残された一番、二番の、「背戸(裏口)に木の実が落ちる」「鳴き鳴き(泣き泣き)夜空を渡るカモ」など、歌詞は不安や不吉を暗示するワードで占められ、高揚感や勇ましさはまったく感じられませんよね。
皇国教師の表向きの建前や信念とは対極的な、心の奥底にある何事もない平和な日常への愛惜の気持ちと、それが阻害される戦争への不安が、作者の意識を裏切って滲み出しているように思えます。だからこそこの歌の前半は、ほとんど変更もなくそのまま「里の秋」として転用されたのです。
二番や三番も悪くはないのですが、やはり飛びぬけて秀逸なのは一番の歌詞でしょう。ドングリでしょうか、裏口の戸のあたりにポツン、と木の実の落ちる音さえ聞こえてくる秋の村里の静かな夜。パチパチとわずかにはぜる囲炉裏のおき火と、ふつふつと煮える鍋の音。
特に注目すべきは、「栗の実煮てます 囲炉裏端」という部分。「煮てます」と言う敬語と倒置法という変則文法の組み合わせは、さながら現代俳句/短歌や広告コピーを見るような現代性や新しさ、はっとする意外性を感じさせます。さらに、一番・二番で登場する栗が日本の国土の象徴、対して椰子が戦地であった海の向こうの南島の象徴となり、鮮やかな対比を生み出しています。こうしたモダンな技巧を用いながらも、この詞は古典性も併せ持ちます。「ああ とうさんのあの笑顔 栗の実食べては思い出す」という歌詞は、山上憶良の万葉集の有名な長歌と対応します。
瓜食(は)めば 子供思ほゆ 栗食めば まして思(しの)はゆ(山上憶良 万葉集巻五 802)
万葉集では父が子供を思いながら栗をかじっていましたが、「里の秋」では子供が父を思いながら栗を食べています。千年の昔から日本人がはぐくんできた家族愛、親子愛。「里の秋」は素朴な田舎の温かさと洗練された教養、古典性と現代的感覚が同居して成立した名詞です。
斉藤は、北原白秋、西条八十、野口雨情、三大童謡詩人を尊敬し、研究していましたが、中でも「生まれ育った風土が近く、一番しっくりする」と雨情を敬愛していました(雨情は房総と気候風土が似ている茨城の出身)。けれども、「里の秋」の後の斉藤のヒット作「蛙の笛」「夢のお馬車」、あるいは童謡としてのデビュー作「ばあや訪ねて」などを見ても、作風としてより近いのは、雨情の明示し難い不条理に彩られた感覚的な作風よりも、こまやかな技巧と合理的な抒情を詠う西条八十のように思われます。
斉藤は、戦後しばらくの浪人生活の中で童謡詩作に打ち込み、やがて気を取り直して中学教師として再出発した後にも、月刊童謡誌「花馬車」を刊行、数多くの作品を残して児童教育、童謡の発展に尽力しました。作った童謡の数は1万1227作。
ちなみに、世間の高評価とは逆に「里の秋」の三番は斉藤自身は気に入らなかったらしく(戦死した兵士の家族の中にはこの歌の内容で悲しみを深くしたというエピソードもあったためといわれます)、オリジナルバージョンの「里の秋」も後に作っています。それは、「戦争がなかった日本」を夢想したような、帰りの遅い父を無邪気に待つ、平行世界の子供と母の情景。斉藤にとって戦争が消えない悔いとしてどれほど深く刺さっていたかをうかがわせます。
「里の秋」の作詞者・斉藤信夫が生涯暮らした千葉県山武市も、先の台風で大きな被害を受けたようです。千葉県、そして伊豆諸島の被災地に、穏やかな秋の日が一日も早く戻ることを願います。
里の秋 川田正子