6月の第一週、6月1日~6月7日は「水道週間」。昭和34(1959)年に、飲料水を供給する水道事業の重要性の認知啓発を目的に、厚生省によって制定されました。水道、つまり真水の供給排水網=上水道・下水道は今では当たり前のインフラですが、蛇口をひねれば清潔な水が出て、汚水は速やかに排除されて病気の蔓延を防ぐ環境が整ったのは戦後のこと。水道が普及していない時代は、人々は湧水や河川に頼り、それが充分でない場合は地下水をくみ上げる井戸を穿って真水を確保しました。明治時代前期、非常に優れた井戸掘削技術が開発されます。上総(千葉県中南部)の君津地域一帯の農業従事者・井戸掘り業者たちにより作り上げられたこの技術体系は「上総掘り」と名づけられました。
世界に誇る驚異の鑿井技術「カズサシステム」、上総に爆誕す
江戸市街の高度な水道システムはよく知られていますが、明治維新を迎えると、江戸=東京の水道網も崩壊。水道整備は明治政府下では遅れに遅れ、大正末期でも全国の98%で水道は未普及でした。1970年代半ばになり、ようやく全国ほぼすべてに水道が普及しました。
ですから長らく人々の生活水、農業水確保のための鑿井(さくせい)は必須のインフラ事業でした。古来は手掘りだったものから、鉄棒をつないでより硬い岩盤も掘り進む「大坂掘り」と呼ばれる突き掘り工法が生まれます。重い鉄棒を連結して突き降ろす大坂堀りは、多くの人力と高い櫓が必要で多額の資金がかかるうえ事故の危険性も高く、それでありながら30メートルほどしか掘り下げられないなどの難点がありました。
房総半島の君津地域・小糸川流域や小櫃川流域は丘陵地帯が多く、主要な川は住居や耕作地よりもかなり低い渓谷となっていて、慢性的に水不足の地域でした。しかし襞をなす清澄・三石山系の山林に降り注ぐ多量の雨で良質な地下水が豊富で、しかも地盤は砂礫で掘りやすいため、何とか水を確保しようと地域一帯の住民たちは文政年間(1818~1830年)ごろから大坂掘りの技術改良に取り組み始めました。明治初期、君津郡俵田村の大村安之助や糠田村の池田久吉らが相次いで鉄棒をより軽い樫棒に代えるカシボウ工法を考案。100メートル以上まで掘り下げることが可能になりました。そしてさらなる軽量化を図って、明治16(1883)年ごろ、大村安之助、中村の沢田金次郎らが、柔軟で軽い孟宗竹を使用した工法を発案し、掘削を行います。「上総掘り」の誕生です。そして、農業用水や飲料水の確保に利用されながら技術の改良が加えられ、明治30年頃には最大1000m以上もの掘削が可能となりました。極めて合理的・シンプルなようでいて精妙な仕掛けが組み合わされています。
水源があろう場所にやぐらを組むと、掘削を始めます。掘り進める道具は、外側に三つの爪が張り出した鋼製の掘削具「サキワ(先輪)」が取り付けられた「ホリテッカン(掘鉄管。重量約30kg)」。これを竹ひごの先端に取り付け、地上からハンドルに当たる撞木(しゅもく)で回転させながら、ドリルのように掘り進めます。竹ひごの長さが足りなくなると、次々に竹ひごを継ぎ足します。軽い竹ひごとはいえ、長く伸びてくれば重くもなり、深くなるほど力が必要になりますが、それを助ける強力な仕掛けが「ハネギ」で、竹ひごにつなげた弓形、あるいは釣竿型になった大きなハネギの反発力と弾力で、深い地中でも上下動が可能となります(ハネギは後にさらにパワーの強い足踏み=タタラ式があみだされます。テンビン板というアクセルにあたる板をハネギにつなぎ、踏み手がこれを踏むことにより、より大きな反発力を生み出し、掘削スピードは3倍に、より固い岩盤も掘り進めることが可能となりました)。ホリテッカンの中は空洞になっていて、開閉弁「コシタ」が取り付けられており、落下時に開き上昇時には閉じます。この弁で掘られた土屑が管内へ吸い込まれる仕組み。ホリテッカンの中に土屑が溜まって重くなると、ハネギにつないでいた竹ヒゴ上部を「ヒゴ車」につけかえ、ヒゴ車を廻してホリテッカンを引き上げ、土を排出させます。そして開閉弁のついた「スイコ(吸い子)」を結びつけ穴に入れ、底にたまった土屑を吸い上げ、取り除きます。ホリテッカンやスイコを引き上げるときに使われるひご車は、リスのケージにある回転キャスターの巨大なもの。くるくる回るリスさながら、足でふんでヒゴ車を回転させてホースのように巻き戻すのです。こうしてホリテッカンとスイコを交互に付け替えながら、穴を穿っていきます。
自噴層まで掘り進んだ後「竹樋」を穴に挿入すれば自噴井戸の完成です。房総は今も日本三大ウチワに数えられる房州団扇があるように、竹細工が盛んだった地域。農漁業が盛んで桶職人や籠職人が多くいたこと、そして平将門以来の製鉄の伝統により、房総半島には今も優れた機能性を有する房州鎌が伝承されていますが、これがホリテッカンやスイコなどの精巧な金属製品の考案作成を可能としました。
日本一の湯の町も、日本一の油田も、石炭採掘も…上総掘りなくしては存立しなかった
上総掘りの技術は全国に広がりますが、掘りぬくのは井戸だけにとどまりませんでした。石炭の地下埋蔵量調査に利用され、また新潟県は日本列島では珍しい原油が地下に存在しましたが、この石油のボーリングのためにも上総掘りは使われたのです。木更津の鹿島太助が、新津油田油井掘削をはじめたのが最初だといわれています。新潟市秋葉区の「石油の世界館」には、当時の巨大な「上総掘り油井やぐら」の2/3模型が展示されています。
また、温泉の源泉掘削にも利用されます。中でも湧出量87,000リットル/毎分と、湯量・源泉数ともに日本一を誇る最大の温泉街・大分県別府温泉も、上総掘りなくしては現在の姿となることはありませんでした。今でこそ別府は多くの湯治客でにぎわう大観光地ですが、江戸時代前期の貝原益軒の「豊国紀行」では500軒ほどの民家のうち、内湯が湧く民家が十軒ほどある、と記していて、とうてい大温泉郷の風情は見られません。さらに明治20(1887)年7月の朝日新聞の記事でも、温泉施設15内湯20と、さして江戸時代から変化のない、ひなびた温泉地だったことがわかります。
ところが、それが30年後の大正7(1920)年の調査では、別府の温泉旅館は216、内湯も400を超え、「温泉に浮かぶ町」と称えられる現在と変わらない姿に大変貌しているのです。君津の井戸掘り職人・石井峯次郎(上総掘りのハネギのシステムを編み出し、上総掘りを完成させた人物)が鹿児島の温泉地に上総掘りを伝え、別府でも上総掘り温泉掘削が急ピッチで行われるようになったためです。明治44(1911)年には、600近くの温泉掘削井(別府では湯突きと呼び習わしていたようです)が確認されています。上総掘りは、別府で「別府式」と呼ばれるハネギが一本から二本(両天秤式)となったり、一人での操作用だった撞木が複数人で同時に回すための丸いハンドル式になるなどのパワーアップがなされ、以降機械式ボーリングに取って変わられる昭和30年ごろまで全国の温泉掘削でも大いに活躍したのでした。
廃れたはずの上総掘りが現代に復活。そのわけとは?
機械式ボーリングの普及でその役目を終え、昭和後期には使用されなくなった上総掘り。しかし、20世紀の終わりに入ってから、復活を果たすのです。その活躍の場は、何と海外でした。発展途上国には今も水道インフラは整備されておらず、水の少ない乾燥地帯や、あるいは水源があるとしても飲料水には適さない泥水のような川の水を飲み、生活に利用している地域が数多くあります。まず千葉県袖ヶ浦のNPO法人「上総掘りをつたえる会」が、1980年代にフィリピン、インドネシアなど東南アジアの各地に上総掘り職人を派遣して井戸作りを行いました。さらに、インターナショナル・ウォーター・プロジェクト(IWP)は、1995年のルワンダ難民救済活動での上総掘りによる井戸掘削とその技術伝承に取り組んだのを皮切りに、環境汚染と気象変動で水が枯渇したケニア、タンザニアなど、アフリカの各地で成果を挙げています。今や、青年海外協力隊や国際協力事業団の活動にも上総掘り技術は積極的に取り入れられ、Kazusa Systemは世界中の人々に命の水をもたらしています。
上総掘りはほとんどの構造体が自然物である竹や木で、電力も化石燃料も必要とせずに大きな土木事業を成し遂げてしまいます。個人的に筆者は、上総掘りこそ世界に誇るべき日本の技として世界遺産に登録されるべきレガシーだと考えます。人類以外の生物が激減し、異常気象も異常とは言えなくなってきた地球環境。
上総の名もない農民・鑿井業者、つまり庶民たちのバイタリティと経験知が生み出した画期的な技術体系「上総掘り」の意義と問題提起は、行き詰まりを見せている人類文明にとっての光明といえるのではないでしょうか。
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