9月29日は「9(来る)29(福)」の語呂合わせで「招き猫の日」となっています。1995年9月29日、日本招猫倶楽部が「招き猫の日(Lucky Cat Day)」として制定した、比較的新しい記念日です。記念日自体は新しくても、招き猫の置物はジャパニーズトラディショナルとして不動の地位を獲得している世界的に有名なラッキーアイテム。招き猫の由来には諸説があり、どれが本当か、よくわかっていません。
諸説あり!の招き猫縁起を検証
招き猫の起源については諸説がありますが、性質上大きく分けて三種類の起源に分かれます。
●寺社の土人形起源説
・江戸浅草の今戸焼丸〆猫人形
天正年間(1573~1592年)ごろから浅草の東北部・今戸ではじまった素焼きや楽焼の陶磁器で、食器のほか盛んに小鳥やキツネ、おかめなどの土人形が作られました。江戸時代後期になると、右手を上げた招き猫の原型とも思われる焼き物が登場し、浅草の三社権現(浅草神社)でみやげ物になりました。
・京都伏見稲荷大社の境内の土で焼いた伏見人形
五穀豊穣の宇迦之御魂神の総本社の伏見稲荷。穀倉や養蚕の守護神でもある稲荷明神の境内で。猫はネズミの天敵でもあることから、稲荷の使者ともされました。五穀豊穣のご利益があるとされる稲荷山の土をこねて素焼した土人形(伏見人形)の招福猫バージョンが江戸後期ごろよりみやげ物になったと言われています。
・京都檀王法林寺の全身黒色の招福猫像
夜の守り神・主夜神(しゅやじん)尊を祭る檀王法林寺では、江戸中期頃から、右手を上げた黒猫の守護像(招福猫)を信徒に授けていたと言われます。これが全国の招き猫像のモデルとなったのではないか、と言われています。
●武将の危機を救った縁起説
・東京都新宿区の自性院無量寺は、室町時代後期の江古田・沼袋原の戦い(1477年5月)で、豊島泰経と戦い劣勢に立たされた絶体絶命の太田道灌の前にネコが現れて手招きして自性院に導き、危機を救ったことから、後に道灌が猫地蔵尊を奉納し、福を呼ぶとして招福猫の起源になったとされます。
・元は足利氏一門の吉良氏の居城(世田谷城)だった豪徳寺。江戸初期、幕府の譜代大名・井伊家の二代目当主直孝が、鷹狩りの折、雷雨に会ったところ、豪徳寺で飼われていたネコが直孝を手招きします。導かれるままに寺に入った直後、直孝のいた場所に雷が落ち、直孝は命の恩人のネコに感謝してこの寺を井伊家の菩提寺にし、それ以来このネコをかたどった招き猫が縁起物となったといわれます。井伊家の居城である彦根城のある彦根市は、井伊家ゆかりで菩提寺でもある豪徳寺の招き猫伝説にあやかってネコのゆるキャラ「ひこにゃん」を売り出し、全国的な人気もあって招き猫豪徳寺説は、一般的にはもっとも広く知られる起源説となっています。
●遊女の飼い猫供養が起源説
・元禄期、遊郭吉原に程近い土手堤に「土手の道哲」こと西方寺と呼ばれる寺がありました。西方寺は罪びとや身よりのない遊女、行き倒れなどの遺体が放り込まれる投げ込み寺で遊女とのゆかりが深く、猫好きで有名だった吉原の遊女薄雲太夫は、愛猫の三毛猫が命を落とした際に西方寺の道哲和尚に猫の供養を頼みます。贔屓の一人が、嘆き続ける太夫のために長崎から取り寄せた伽羅の名木で愛猫に見立てた「招き猫」を刻み薄雲に贈ります。薄雲はこの彫像を西方寺に奉納。これが招き猫の起源となったというもの。寺は消失後、現在は豊島区に移転しています。
どれが本当の起源なのでしょうか。
「金運のネコ」のつける赤い首輪に金の鈴が示すものとは
招き猫の意匠は、奇譚・怪異譚を集めた唐時代の「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ・860年ごろ)の八巻所収の逸話が起源になっています。
俗言貓洗面過耳則客至。楚州謝陽出貓、有褐花者。靈武有紅叱撥及青驄色者。貓一名蒙貴、一名烏員。平陵城、古譚國也、城中有一貓、常帶金鎖、有錢飛若蛺蝶、士人往往見之。
この中で「俗言貓洗面過耳則客至」、つまり、ネコが(前足を)耳の後ろを過ぎるほど深く顔を洗うしぐさをすると客がやってくるといわれる、と記しています。いわゆる招き猫のしぐさが客を呼ぶ、福を呼ぶということですね。そして、中東産でまだ中国では珍しかったネコは貴人たちにより城内で大切に飼われ、金の鎖帯をつけ、蝶と戯れるようにコインをおもちゃにして遊んでいる、としています。なんとも景気のいい逸話ですが、猫は五行説では金気をあらわし、それゆえに蓄財・金運に与れる、とされていたのです。ですから招き猫の意匠でも多くは小判を抱えた姿ですし、金の鈴をつけた首輪をしているのです。千客万来の手招きをする金運のシンボル。このイメージが、日本の招き猫のルーツであることは間違いがありません。
そしてだからこそ、猫は商家や農家の蔵の守り神となり、浅草神社や伏見稲荷、檀王法林寺の縁起物のみやげとなったわけで、おそらくそれらの縁起物土人形が起源であろうと思われます。
そしてもう一つ。江戸時代、江戸城の大奥では、奥女中たちがネコを盛んに飼っていました。大奥のネコたちは、逃げないように目立つ赤い首輪と紐でつながれていました。また、売れっ子の花魁にもネコ好きが多く、遊女たちの慰めとして、ネコは人気でした。遊郭や歓楽街などの艶めいた場所と猫との結びつきは強く、ネコが赤い首輪をつけている意匠が多いのは遊女の腰巻の緋縮緬(ひぢりめん)を現しているとも言われます。
現代では捨て猫によるネコの受難は多く、江戸時代の遊女の投げ入れ寺の悲しい史実ともどこか重なるため、その意味でも薄雲太夫の西方寺説は説得力があるように思われます。
招き猫に三毛と黒猫が多いのにはわけがあった!
ところでなぜベーシックな招き猫は三毛猫なのでしょう。起源説として有力なのではないか、と筆者が考える薄雲太夫の飼い猫も三毛猫ということになっていますが、三毛猫、特にオスの三毛猫はその希少性から魔よけの力があるという俗信があったためだと考えられます。オスの三毛猫を船に乗せると悪天候を予知し、海難事故を逃れて大漁をもたらすといわれていました。また、黒猫も特別な力のある猫とされ、愛知や岡山、長崎の壱岐などでは特に福をもたらすと喜ばれていたため、三毛猫と並んで招き猫のスタンダードですよね。黒猫や三毛猫は家の魔や災厄を一身に吸い取ってくれると大切にされました。
ところが一方で、黒猫や三毛猫こそ運気を悪くする不吉な動物と取る地域もあったのです。正のパワーは負のパワーも強い、という考えが根強いためでしょう。
三毛猫や黒猫に限ったパワーがあるかはわかりませんが、ネコにはまさに人に「福をもたらす」と言っても過言ではない力があることは、近年の研究で明らかになってきています。ネコの飼い主がそうでない人と比べて、心臓発作のリスクが約30%少ないなど、心臓循環器系のリスクが低いことが判明しています。ネコと触れ合うことで分泌される、俗に言う「幸せホルモン」オキシトシンは、ストレス、不安や抑うつ感情の緩和や、怒りの感情を抑制して人との協調性・信頼感情、そして記憶力まで高めてくれます。ネコののどのゴロゴロが傷病の癒し効果があること、一歳までにネコのいる環境に育った人は、アレルギーへの耐性も高まることも知られています。
その一方、ネコが人間に向けて発する鳴き声は人間の赤ちゃんの声によく似ており、この声で人から望みのものを引き出すすべを獲得していると言いますから、やはり人をとりこにする「魔性」の生き物であることも間違いないようです。
参照
憑物呪法全書 (豊嶋泰國 原書房)
日本招猫倶楽部
檀王法林寺日本最古の招き猫伝説