8月もいよいよ下旬。23日より二十四節気「処暑(正しくは處暑・しょしょ)」となります。こよみ便覧では「陽気とどまりて(止まりて)初て志りぞき(退き)やまんとすれば也」とし、暑さがようやくおさまり、涼しくなるころである、としています。でも、江戸時代は愚か昭和の時代と比べても、近年の暑さは前倒し、そして残暑は引き伸ばされる傾向があり、体感としてはまだまだ夏の暑さが続くといった感じですね。それでも、南方からはウスバキトンボも飛来して飛び交う姿も見かけるようになり、夜明けが遅く、日暮れが早くなるのも実感しだす頃です。
「義に生きる鳥」鷹が獲物を並べて奉る?ほんとうにするのでしょうか?
処暑の七十二候初候は、中国宣命暦では「鷹乃祭鳥(たかすなわちとりをまつる)」で、いわゆる「祭りシリーズ」の一つ。
「鷹乃祭鳥」は、鷹が獲物の鳥を神に捧げるように並べる、という意味です。
秋を迎えるこの時期ごろから、鷹はその年のつがいを解消し、単独行動をしはじめます。そして、この夏大人になった若鷹は狩りを習熟して成功率が高くなります。さらに鷹にとっては、中秋から晩秋にかけて寒冷地域では南方への短い渡りを控え(サシバやハチクマのように本格的に長距離の渡りをする種もあります)栄養をつけねばならないこともあり、旺盛に狩りをする姿が見られる時期。獲物を一羽しとめても、食べるまもなく次の獲物を狙いに飛び立つことが見られることが、ときとしてあるのかもしれません。とはいえこれを、「鷹が獲物を祭る」とするには無理があるのは否めないでしょう。
この候があらわそうとしているのは陰陽五行思想に基づく「秋」の象徴としての鷹のふるまいです。
鷹は陰陽で言うと「陰」の鳥であり、衰滅と実りの秋を支配します。逆に「陽」を司るのは鳩で、鳩は春を支配します。鳩と鷹は、古くは中国では季節により、鳩から鷹へ、鷹から鳩へと変化するものと信じられていました。秋の訪れで活動期を迎えた鷹はまた、五行では「金」に当たるとされます。「金」には厳しい秋気により草木を枯らす働き=粛殺の作用が備わり、秋の象徴である鷹は、それゆえに小鳥たちを狩って回る=粛殺すると言うわけです。
また、「五行」は「五常(または五徳。仁・礼・信・義・智)」と対応し、金は「義」に対応します。「義の鳥」、つまり義理と正義の象徴である鷹は、自身の先祖霊のために獲物を奉り、またこの際にも雛鳥や育雛中の鳥は襲わない、ともされています。まさかそんなわけはない、とも思われますが、これもまったくゆえないわけではなく、たとえばチョウゲンボウという小型のタカの巣の近くには、好んで小鳥たちが住み着くといわれます。チョウゲンボウが小鳥たちの捕食者のカラスや他の猛禽を追い払うため、小鳥たちにとっては安全な住処となるためです。そしてチョウゲンボウは巣を陰地などの枯れ木の洞にかけますが、狩りは平原で獲物を真上から急襲し、巣の近くでは狩りをしない習性があります。鷹全体にそのような傾向が見られるため、こうした様子を見て、昔の人は鷹を気高く、弱いものを襲わない義の鳥だと考えたのでしょう。
江戸時代の日本はワタ畑だらけだった!
一方、和暦・本朝七十二候の処暑初候は、貞享暦では「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」で、改暦された宝暦暦から以降は「綿柎開(めんぷひらく/わたのはなしべひらく)」となっています。 「柎」とは「うてな」で、花のがくを指します。綿(コットン)の素材となる綿の花が咲き終えて、種子を抱いた実鞘がはじけて、綿毛があらわになる頃、という意味。現代でも普通にいるヒグラシを取り上げた「寒蝉鳴」はいかにも晩夏らしい題材ですが、「綿柎開」、こちらは現代の私たちにとっては、まったくなじみがない、季節感をあらわすのにピンとこない風物ではないでしょうか。
というのも、現代の日本では綿花の栽培は、観光農園や教育施設などで細々と続けられているのをのぞき、自給率はゼロ。100%の綿花、綿糸が海外からの輸入品です。私たちが身近な風物として、綿花畑を見て秋の訪れの風情を感じる、ということはしたくても無理なのです。
しかし、宝暦の頃の日本は違っていました。日本の綿花の栽培は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、木綿の衣服の優秀性が知られることとなり、以降江戸時代から全国、特に畿内と瀬戸内地方で盛んになります。当初は朝鮮、中国から綿布を輸入していましたが、次第に国内綿布の需要を100%国内でまかなうまでに発展し、西日本の一部では、米の生産を上回るまでになる地域もあったようです。元文年間(1736~1741)の大阪市場での綿関係商品は全体の10%以上を占めて、米をも上回るほどだったといわれます。「七十二候鳥獣虫魚草木略解(春木煥光)」では、こう書かれています。
諸国ニ植テ綿ヲ採ル 故ニ形状贅言セズ
「どこでもそこらで栽培されてて見たことあるでしょ?だからくどくど姿を書かないよ」と言っているごとく、江戸時代には綿花は全国各地で盛んに作られていました。綿花栽培は明治以降も引き続き国策として奨励され明治中期頃まで大きく発展し、一時期は世界一の生産量となり、重要な輸出品にもなりました。しかし、アメリカの安価でかつ日本で栽培されてきたアジアメンよりも良質なリクチメン(陸地綿)の原料綿花の輸入解禁により、日本の綿花栽培は大打撃を受け、壊滅することになりました。
商品生産としては途絶えましたが、在来の日本産のワタの花は白くて愛らしく、独特の風情があり捨てがたいものです。
21世紀。純白の綿花を襲うどす黒い魔の手とは…
栽培品種の綿、ワタ属(Gossypium spp. cotton plant)はアオイ科に属し、ハイビスカスやムクゲ、フヨウ、オクラなどの仲間になります。あの、紙の原料となるケナフも近縁。
花は側枝の葉腋から出穂し、クリームからレモン色の薄い黄色の花が多いのですが、中には白、ピンク、中心が鮮やかな赤になるものなどがあり、夏、冴えた花色の一日花を次々に咲かせます。花が咲き終わると長球形の蒴果(アサガオやホウセンカの実を想像してください)を成し、種子が成熟すると、種皮細胞の一部が綿毛として発達して、蒴果内に充満して裂開します。この白い綿毛が花びらのように見えるため、「綿花」と呼ばれます。
ワタの起源は、アフリカ大陸だと推定されています。有史以前に繊維を採るために栽培されたワタの原種が、5600年ほど前にエチオピアからインドにわたり、インドでさまざまな品種が生まれます。このうちのキダチワタが、中国にでナンキンワタとなり、日本にも伝わりました。この系統をアジアワタとも言います。
一方、古代大陸の分裂以前に、ワタの原種が自生分布していたアメリカ大陸では独自の自生種が進化し、古代原住民に使用されていました。中央アメリカでも、5000年前の遺跡からワタの栽培の痕跡が出土しています。これをペルーワタといいます。このペルーワタにインド系の綿がかけあわされて、アメリカ大陸の綿の主要品種、リクチメン(陸地綿 G.hirsutum L.)とカイトウメン(海島綿 シーアイランドコットン Gossypium barbadense)が出来上がりました。リクチメンはアジア綿より毛足が長く細く、製糸紡績用として優れ、肌触りがよかったたため、植民地での栽培を経て世界中に広がり、綿紡績は産業革命の大きな担い手となりました。
現在世界最高級品とうたわれるカイトウメンは、品質は抜群の超長繊維で(短繊維綿21mm以下、中繊維綿=22mm~28mm未満、長繊維綿=28mm以上、超長繊維綿=35mm以上)、長く英国王室御用達の特別な綿として珍重されていましたが、病害虫に弱く環境に敏感であるために、カリブ海の英領西インド諸島以外では栽培が不可能で、かつては金と同等の価値で取引されていたものです。200年間も門外不出となっていましたが、なぜか1975年に日本がカイトウメンの原綿を全量たくされることになります。現在でも、全世界のカイトウメンの70%が、日本国内で製品化されています。あの愛媛県の高級タオルの代名詞・今治タオルにも、カイトウメンが使用されています。
このような高級綿がある一方、今、世界の綿の巨大生産地は大きな転換点と対立にさしかかっています。
今世紀に入り綿花栽培は、遺伝子組み換え綿の急速な普及にさらされています。殺虫効果の高い物質を分泌することで病害虫害から守る遺伝子、そして除草に使われる農薬への耐性の強い遺伝子です。今までは作物自体を枯らしてしまうため使用できなかった強力な殺虫剤、除草剤、化学肥料が、遺伝子組み換えにより可能となることで栽培の省力化が図られ、近年では、綿の八割以上が遺伝子組み換え品種に置き換わりつつあります。これは、そのような強い薬品を使用された土壌が、在来種を受け入れることができなくなってしまったことと関係があります。
中国、アメリカと並んで世界的な産地であるインドでは、この春、最高裁が遺伝子組み換え綿の特許を持つ企業に特許使用を認めないと裁定をくだしました。つまり在来の非遺伝子組み換え綿の生産保護に舵を切ったのです。
世界は今、グローバル企業や金融投機市場による生産地・生産者への搾取による富の偏在が加速化しています。綿についても、フェアトレード(生産に見合う対価を支払い、子供の労働搾取を制限する取り組み)の制度が浸透しつつありますが、遺伝子組み換え農産物の問題はより困難な課題です。ジーパンやTシャツ、下着など、私たちの生活に欠かせない綿製品。「綿柎開」のこの時期に、考えてみませんか。
参照
「植物の世界」 (朝日新聞社)
2018年度版 綿の生産地ガイド
海島綿の歴史的概観