今年も職場の忘年会はすでに開催済み、次はクリスマスを兼ねてプライベートの忘年会!! そんな方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。忘年会(年忘れ)がいつ頃から行われていたのかを調べてみても、昔の記録があまり残っていないのだそうです。いったいどうして? そして、忘年会といえば「無礼講」! なんと、昔から油断できない宴会だったようですよ。ちなみに、江戸の忘年会好きには意外なあの人も…!?
「無礼講」は危険すぎる宴会!? そして忘年会の起源がわからない理由とは?
「今夜は無礼講だ!」「やった〜!! 気をつかわなくてOKなんだ♪」と、手放しで喜ぶ大人の会社員はいません(たぶん)。無礼講とは「身分の上下に関係なく、礼儀作法なしに催す宴会」のことですが、じっさいは上の者は上であり、無礼な行為などもちろん許されていないのはご承知の通り…つまり、「今夜は無礼講だ!」と聞いたら、脳内ですかさず「でも本気じゃないぞ!!」と補足する必要があるのですね。うっかり羽をのばすとリストラの危険すらある、トラップ(罠)の一種といえるでしょう。真面目な部下にとっては「好感の持てる羽目のはずしかたとは!?」などと、余計なストレスにもなっているようです。『世界大百科事典』によると、無礼講には「平常の社会階梯を一時無視することによって参加者の欲求不満を解消し、結果において既存の社会秩序を維持する役割」があるのだとか…。
貴族がつくった宴会の正式な形式や礼儀作法にこだわらない武士の宴会を、無礼講と呼びました。日本史上もっとも有名な無礼講といえば、鎌倉時代の「正中の変」で後醍醐天皇がひらいた宴会です。軍記物語『太平記』には、その様子が描かれています。
政治を自分の思い通りにできなくて不満がたまっていた後醍醐天皇。いっそのこと幕府を倒しちゃえ!ということで、天皇自ら無礼講を開催。身分を越えたメンバーを集めて密議を重ねるのです。参加者は、上着も烏帽子も脱ぎ捨てて、透け透けの服をまとった美女たちにお酌してもらい、食べては歌い舞う乱痴気パーティー(表向きはカルチャーサークル的な集いを装い、じつは不信者の選別も兼ねていたようです)。ところがある夜、メンバーの一人が奥さんに計画を漏らしたため事前に発覚し、首謀者は処分されてしまったのでした。
無礼講、昔からちょっとリスキーな宴会だったようです!
現代では、無礼講といえば会社の忘年会、というイメージですよね。
もっとも古い忘年会(年忘れ)の記録は、室町時代前半の『看聞(かんもん)日記』という書物。大宴会の盛り上がりがまるで『年忘』のようだ、と記されています。例えに使われるくらいですから、すでにこの頃ポピュラーだったことが伺えますが、それじゃいつから始まったかというと、じつは不明…なぜなら、記録がほとんど残っていないから、なのです。
今おこなわれている年間行事の多くは、もともと宮中や政府によって目的やルールが定められ、公式な記録に残されてきたもの。ところが忘年会は、家族親戚などが一年の労苦をねぎらい合う、ごくごくプライベートな集まりだったというのです。それがなぜか現在、企業などのオフィシャルな場面で定着しているなんて。歴史って本当に面白いですね。
侘びを愛する芭蕉さんは意外にも忘年会好きみたい…って、じつはこれも!?
江戸時代も忘年会はおこなわれていたようです。有名な俳諧師・松尾芭蕉といえば、晩年を旅に生きた孤高の芸術家! 私生活もストイックだったのかと思いきや、意外にもお酒に関する作品が多く、大のアルコール好き・忘年会好き(・女好き?)だったようなのです。元禄3(1690)年、47歳のときにつくった年末の句が、京都の上御霊神社に句碑として残っています。
半日は 神を友にや とし忘れ
神を友にといっても、もちろんクリスマスの句ではなく、連歌の会でこの神社を訪れた際に奉納したもの。「今日はこのような尊いお招きにあずかり、半日楽しい句会ができたことを感謝いたします。残る半日は、こちらの神々と年忘れをお楽しみくださいますように」というような、ご挨拶の句ですね。
芭蕉さんは俳諧を広く伝えるため、精力的に各地のイベントに出演していました。句碑には「半日を打寛ぎ、年忘れ歌仙を奉納した」とあります。歌仙とは、最初の人が五・七・五の句(長句)をつくり、次の人は七・七(短句)をつくり、その次の人は五・七・五、その次の人は七・七…と、連々と36句続けていく催し。季節の会話を句でおこなうライブです。いかにフレッシュな表現で先へ先へと進んでいくかが、感性の見せどころ。芭蕉さんは「半日を打寛ぎ」、お酒やご馳走のおもてなしにも至福の時間を過ごしたことでしょう。その翌年、元禄4(1691)年、48歳の年末には、仲良しの俳人・山口 素堂(やまぐち そどう)さん宅でお弟子さんたちも交えて忘年会を楽しんでいたようです。
魚鳥の 心は知らず 年忘れ
「魚や鳥の気持ちはわからないが、自分たちは親しい者どうしで集まって、こうして年忘れの会をひらいている。さ、楽しもうぜ〜!」というような内容の句です。お友達が飼っている魚や鳥が目の前にいるわけではなく、『方丈記』第四段によるもの。魚には魚の、鳥には鳥の居心地のいい場所がある。さびしいひとり暮らしには、本人じゃなきゃわからない良さがあるんだよ! と記されている箇所です。
それに対して、「さびしい生活の良さなんてわからん。いまは楽しく呑もうぜ」。ふだんあれほど侘びを愛しているはずなのに、お酒を前にするとこうも方針が変わってしまうのでしょうか…と、これはもしかして!?
もし、その言葉を真に受けて「そうですよね、そんなやつほっといて、いまは楽しく呑みましょう」などと返したら…おそらく芭蕉さんは、フッと笑ってさびし気に遠い目をするような気が。なんだか「今夜は無礼講だ!」と同様のトラップを感じるのです。
「侘びなんて忘れて楽しく過ごすぞ」(脳内で)「ただし、侘びのわかる相手とな」。もちろん本気じゃないことくらいわかってる君だから「知らず」と言っておくよ。そんな「わかる相手」と呑んでいるからこそ、忘年会が楽しかったのかもしれませんね。お酒の席は、いろいろ忖度が必要なようです。
一年のイヤなことを忘れてしまうより、嬉しかったことを数えて過ごそう!
ところで、昔のプライベートな忘年会が何を忘れたかったかというと、「親や自分がひとつ年をとってしまうこと」なのだそうです。51歳で亡くなっている芭蕉さんにとって、この頃はもう晩年。すでに健康状態も不安だったので(でもガンガン呑んでますが)、一年の終わりはいっそう感慨深かったことでしょう。
ご長寿な老人や美魔女が増えているとはいえ、やっぱり現代も人の命が儚いことに変わりはありません。一年をまもられて過ごせた恵みのほうを、ひとつずつ感謝しておぼえていたいものですね。何かと忙しい年末ではありますが、大切な人と年忘れの集いを楽しんでみませんか。
<参考文献>
『忘年会』園田英弘(文春新書)
『松尾芭蕉』雲英末雄・高橋治(新潮社)
『芭蕉「かるみ」の境地へ』田中善信(中公新書)