
<吉田義男さんメモリーズ14>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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吉田さんはパリが好きだった。フランス代表監督に就任した際、地元レキップ紙に「プチサムライ」と報じられた。野球が普及していない地で熱心に指導する日本人の姿は珍しく映ったようだ。
毎年パリで合流したムッシュ吉田は「オペラ通りの先の、あそこの交差点の角で待ってますわ」といった。「いやいや監督、日本から行くんですから、大阪の梅田で待ち合わせするんじゃないんですよ」。
シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内にたどり着くと、ムッシュ吉田は本当に予定の時間、約束の交差点に立っていた。「いらっしゃい。エスプレッソでもしましょか」とパティスリーに入った。
阪神監督として日本一から最下位に転落して深い傷を負った。心のよりどころが、フランス野球との出会いだったのだ。日立フランス社長・浦田良一さんから「こっちでも野球をやってるから遊びにきたら」と誘われたのが契機だった。
プロ野球出身者で吉田さんほど“世界”で野球をした人材は見当たらない。1989年(平元)から7シーズン、仏ナショナルチーム監督を務めながら五輪出場を狙った。当時日本野球連盟会長、IBAF(国際野球連盟)副会長、山本英一郎さんとはじっこんだった。
「山本さんにはものすごく協力していただきました。フランスを国際大会に何度も参加させてくれたんですよ。イスラエルや、キューバでも野球をやりましたで。あっち、こっち行きましたけど、負けてばっかりでしたわ。でも国際試合を体験することで、チームは日に日に力をつけていきましてね」
社会人野球の臨時コーチにも積極的に赴いたし、日本代表監督の候補に挙がったこともあった。現在もJABA(日本野球連盟)名誉会員の5人のうちの1人に名を連ねる(他は広岡達朗氏、土井淳氏、王貞治氏、土屋弘光氏の4人)。
吉田さんは代表監督を退任後も、毎年渡仏して地元で旧交を温めた。14年からは自らの冠がついたフランス国際大会「吉田チャレンジ」が開催されるようになった。社会人の侍ジャパンが参加した年もあった。
パリの朝、ムッシュ吉田の定宿にうかがうと、いつもホテルの正面で待っていた。突然「ランチしにローマに行こか?」と言い出した。「えっ、イっ、イタリアにランチですか?」「ええ。パスタ行きまひょ」。
なんだかんだと空路ローマに飛んだ。最終便でパリにUターンした。そしてローマ市内を歩いていると、帰り際にムッシュ吉田から「ローマに来た証に“足跡”をつけましょう」と言われた。
拙者はその場で地面でも踏みつけるのかなと思ったら、近くにある超高級靴店に入った。平凡なサラリーマンでは手が出ないキラキラと輝いた靴たちがズラリと並んでいた。
「ローマにきた記念にしましょう。どの靴でもいいから買ってあげますわ。足は大事でっせ。さぁ、どうぞ、どうぞ」
それが彼がいった「足跡を残す」という意味だった。まずあんな高価な靴に出会ったことも、触れたこともなかった。でもせっかくだからエナメルの高級靴を買ってもらった。
吉田さんはIBAF五輪野球復活委員も務めた。野球ソフトボールが五輪から除外されていたとき、ある“密命”を帯びてリカルド・フラッカーリ会長(現世界野球ソフトボール連盟会長)に会いにいったこともあった。
野球ソフトボールの東京五輪復活はうれしそうだった。「社会人野球に五輪を目指してほしいわ」。21年まだ新型コロナウイルスの規制はあったが、都内にあったフランス代表チーム本部への出入りはVIP待遇で通された。
後でハッと気付いたことだが、あのとき吉田さんは暗に「新聞記者は“足”が大事でっせ」と教えたかったのではないかと思った。分不相応というか、いまだ履けずにある一足の靴を見つめながら、真意を聞くのを忘れた心残りを悔いている。【寺尾博和】