認知戦の実態−北方領土におけるロシアの政策−【実業之日本フォーラム】
人は環境に順応する。「非常事態」も長く続けば、それは「常態」と認識される。別の言い方をすれば、「既成事実を積み上げる」、安全保障に係る英文で目にする「Fait accompli」の状態を達成することが認知戦の目的である。中国の尖閣諸島における公船の活動、南シナ海における「九断線」の主張は、いずれも従来の国際秩序を力で変更し、中国権益の既成事実化を狙うものである。まさに相手に中国の主張を「常識」と認識させる、「認知戦」を遂行していると言える。
ロシアによる「認知戦」が成功しつつあるのが北方領土問題である。外務省HPによると、北方領土に対する日本の立場は次のとおりである。
「1855年2月7日、日本とロシアの間で『日魯通航条約』が調印され、択捉島とウルップ島の間に国境が確認された。それ以降、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は、一度も他国の領土となったことはなく、日本固有の領土である。しかしながら、1945年にソ連に占拠されて以降、今日に至るまでソ連・ロシアによる不法占拠が続いている。」
日本としては「不法占拠」であるが、占領後70年以上が経過し、北方四島のロシア化は着実に進行している。独立行政法人北方領土問題対策協会HPによれば、北方四島在住のロシア人の人口は、2016年には16,668人であったものが2018年には18,010人に増加している。北方四島で生まれ育ったロシア人にとって、北方四島は故郷である。2019年1月にロシア政府系世論調査機関が実施したアンケートによると、北方四島のロシア住民の93%が日本への島の引き渡しに反対している。日本が主張する北方領土の返還は、同地に暮らすロシア人にとって、民意に反し、故郷を奪う主張となる。
日本人の意識も変化しつつある。内閣府は「北方領土問題に関する世論調査」を5年おきに実施している。2013年の調査では、北方領土問題をある程度知っていると、良く知っている、を併せると81.5%となり、高い認知度を示している。しかしながら2018年の調査では、65.5%に低下している。さらに、北方領土に関する啓発活動への参加意欲について2013年度の調査で、59.5%が参加したくないとしており、この数字は2018年には67.3%に増加している。日本国内における北方領土に対する関心が低下しつつあることを示す数字である。
北方領土を論じる場合、忘れてはならないのは、北方領土の安全保障的価値である。防衛白書によると、ロシアは1997年以降、「コンパクト化」、「近代化」、「プロフェショナル化」という3つの方針で軍改革を推進中である。その中で、近代化に関しては、核戦力に重点が置かれ、86%の核戦力が近代化されたとしている。極東地域では、2隻のボレイ級SSBN(弾道ミサイル原子力潜水艦)が配備され、デルタIII級1隻とともにオホーツク海を中心とした海域に配備されている。米国と核抑止体制を構築する上で、残存性の高い第二撃能力であるSSBNの存在は極めて重要である。従ってロシアにとって、SSBNが行動するオホーツク海を聖域化することが必須となる。2016年に択捉島と国後島に対艦ミサイルが配備されたことや、択捉島への最新鋭機Su-35の展開、更には択捉島及び国後島に最大射程400Kmの地対空ミサイルを配備という一連の措置は、オホーツク海にいかなる軍事力の展開も許さないというロシアの強いメッセージと言えよう。
2021年9月3日にウラジオストックにおける「東方経済フォーラム」において、プーチン大統領は、北方領土問題を含む日本との平和条約交渉について「ボールは日本側にある」と述べている。更に、クリル諸島(北方領土と千島列島)に経済特区を設け、内外進出企業に課税を免除するという案を公表した。日本政府の方針が「二島先行返還」と「四島一括返還」の間で揺れ、日本の世論が北方領土に対する関心が薄れていく状況をうまく利用し、ロシア支配の既成事実化を経済面でも担保しようとする狙いが透けて見える。
日本固有の領土である北方領土がロシアに不法占拠されているという実態は、それが長く続けば続くほど、日本世論にあきらめムードが広がるであろう。ロシア修正憲法には「領土の委譲禁止」の項目が規定されており、昨年罰則規定も制定されている。ロシア政府は、国境線画定は別問題としているが、日ロ交渉の場で、憲法を持ち出す可能性は否定できない。ロシアによる、北方四島支配の政治的、軍事的そして経済的既成事実化は、ロシアによる認知戦の勝利に傾きつつある。ロシアの完全な勝利を阻止するために、粘り強く対ロ交渉を継続する必要がある。
韓国に不法占拠されている竹島、中国が根拠なき領有権を主張する尖閣諸島も同様に、激しい認知戦の最中にある。日本の民法には、土地や不動産の「時効取得」という制度がある。20年間にわたり所有する意思をもって土地や不動産を公然と占有している人間に対し、本来の所有者が長年にわたり立ち退きを要求しなかった場合、その不動産や土地は占有者のものとなるという制度である。ロシア、中国及び韓国がいかなる主張を行おうとも、日本が領有権を主張し続けているという事実は重い。これもある意味既成事実化と言える。同じ主張を継続しても意味はない、言っても聞く耳を持たないから言う必要はない、という考え方は相手を利するばかりである。逆に、相手がうるさがるぐらい権利を主張し続けなければならない。領土問題に関しては、沈黙することは決して利とはならない。
サンタフェ総研上席研究員 末次 富美雄
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社において技術アドバイザーとして勤務。2021年から現職。
写真:TASS/アフロ
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