軽自動車の先駆メーカーとしてその名を馳せていた鈴木自動車工業は、1981年に重要な決定を下す。米国の自動車会社、GMとの業務提携だ。その戦略の一環として、両社は小型乗用車の開発に乗り出した――。今回はスズキが小型乗用車カテゴリーへの復活を果たす端緒となった初代カルタス(1983年~)の話題で一席。
【Vol.76 初代 スズキ・カルタス】
1970年代後半の鈴木自動車工業(現スズキ)は、軽自動車のカテゴリーで確固たるリーダー的な地位を築き始めていた。とくに1979年5月に発表した軽ボンネットバンの初代アルトは、47万円~の低価格などが話題となり、軽自動車史上空前の大ヒット作に昇華する。1977年10月に登場した初代セルボも、軽自動車唯一のスペシャルティカーとして若者層を中心に人気を博していた。一方で鈴木自工の首脳陣は、この現状に決して満足していなかった。1978年6月に鈴木修氏が代表取締役社長に就任すると、小型乗用車市場への再参入や大規模な海外進出を本格的に画策するようになる。とはいえ、鈴木自工一社の力だけでは、資金面でも技術面でも心許ない。そこで首脳陣は、海外メーカーとの提携を模索した。
鈴木自工が提携先として選んだのは、世界最大の自動車メーカーとして君臨するゼネラル・モーターズ(GM)だった。GM側もアジア市場への進出や小型車を新開発するうえで、鈴木自工に魅力を感じていた。両社は1981年8月に業務提携を発表。さっそく共同プロジェクトを手がけるようになった。
最初のプロジェクトは両社の念願である小型乗用車、通称“Mカー”の開発だった。エンジンやシャシーなどのメカニズム関連は鈴木自工が設計し、エクステリアとインテリアはGMが主導する。もともと鈴木自工は1970年代後半から小型車の開発を企画していたため、そのノウハウは十分に持ち合わせていた。そこにワールドカーとして仕立てることを目指してGMの意見を取り入れ、開発は鋭意進められた。
メカニズム面での最大の注目はエンジンだった。開発陣は“小型・軽量・低燃費”をコンセプトに新エンジンの設計図を描き、Gの型式を名乗る993cc直列3気筒OHCユニット(市販時の名称はG10型。最高出力は60ps)を完成させる。G型はコンセプト通りの性能を発揮し、しかも非常によく回った。後継のM型ユニットに変わるまで、G型は長いあいだ鈴木自工のメインエンジンとして活躍する。
一方でエクステリアに関しては、直線基調のボクシーなフォルムを採用する3ドアハッチバックに決定した。3ドアに絞ったのは、アメリカでの市場動向に配慮したためだ。インテリアはデジタルメーターを採用した点が特徴。これもアメリカ人の好みを反映した結果だった。FFレイアウトで企画したプラットフォームは新設計で、ここに軽量かつ剛性の高いモノコックボディをセット。ホイールベースは2245mmに設定する。懸架機構には軽自動車のコンポーネントを一部流用した前・マクファーソンストラット/後・縦置き半楕円リーフを採用した。
■ワールドカーとして世界市場で発展
1983年9月、鈴木自工初の量産FFリッターカーとなる「カルタス」が市場デビューを果たす。車名のCULTUSは造語で、“崇拝”を意味するラテン語が語源の英語CULT(カルト)およびこれを接頭辞とするCULTURE(カルチャー=文化)に由来。文化・教養に関係が深く「思想のあるクルマは文化だ」という主張と、現代のクルマ文化に貢献したいという鈴木自工の願いを込めて命名されていた。
カルタスのデビュー当初の車種展開はG10型“エクスター”エンジン+5速MTの3ドアハッチバックのみの設定で、ボディサイズは全長3585×全幅1545×全高1350mm。1984年5月にはターボ付きG10エンジン(80ps)搭載車と3速AT車を、8月にはホイールベースを100mm延長(2345mm。全長は3685mm)した5ドアハッチバックや新開発のG13A型1324cc直列4気筒OHCエンジン(75ps)搭載車をラインアップに加える。また、スイフトの車名で輸出も展開。さらに、米国市場ではGMがシボレー・スプリントの名でリリースし、ほかにもカナダ市場でポンティアック・ファイヤーフライ、オーストラリアおよびニュージーランド市場でホールデン・バリーナとして販売される。いずれの市場でも、使いやすく、しかも低燃費なサブコンパクトカーとして高い人気を獲得した。
カルタスのデビューと前後して、鈴木自工は待望の海外進出も果たす。1982年9月にはパキスタンのパックスズキモーター社で4輪車の生産を開始。1983年12月にはインド政府と合弁で立ち上げたマルチ・ウドヨグ社が4輪車の生産を始めた。もちろんアジア市場でもカルタスの現地仕様が大活躍。鈴木自工のさらなる発展の原動力として、重要なモデルに成長していった。
日本市場におけるカルタスの改良も鋭意続けられる。1986年6月にはマイナーチェンジを敢行し、内外装の一部変更やリアサスペンションのアイソレーテッドトレーリングリンク(I.T.L.)化、G13B型1298cc直列4気筒DOHCエンジン(97ps)搭載車の設定、ターボ付きG10エンジンへのEPIの採用(82ps)などを行う。この時に新設定されたG13Bエンジン搭載の1300GT-iは、モータースポーツのシーンでも大健闘。軽量ボディと高性能エンジンの特性を活かして、ダートトライアルなどで数々のクラス優勝を成し遂げた。
SUZUKIブランドの小型乗用車として独自のポジションを築いていったカルタスは、1988年9月に全面改良を実施して第2世代に切り替わる。ただし、2代目が上級移行し、価格も上昇していたため、初代はラインアップを縮小しながらしばらくのあいだ販売が続けられた。デビューから5年あまりが経過しても、実用車としてのポテンシャルが色褪せなかった証である。
■イメージキャラクターでも注目を集めた歴代カルタス
誕生の経緯や開発過程、販売戦略など、注目点の多い歴代カルタスだが、実はもうひとつ、大きな特徴があった。イメージキャラクターとして、数々の有名人を起用した事実だ。
今回ピックアップした初代モデルでは、1984年から俳優で歌手の舘ひろしさんを起用。「オレ・タチ、カルタス」や「Hard Touch, CULTUS.(ハード・タチ、カルタス)」のキャッチフレーズで、インパクトの強い広告展開を披露する。また、数回に渡って「TACHI VERSION」と称する特別仕様車もリリースした。2代目モデルでは1988年から米国俳優のロブ・ロウさんを、1991年以降はミュージシャンの大江千里さんを起用。大江さん時代のキャッチフレーズは、「カルタス、千里 走る」だった。舘さんといい、大江さんといい、歴代カルタスの宣伝担当者はダジャレが好きだったのかもしれない。