視聴率20%超えを連発し、非常に盛り上がっているNHKの朝ドラ『ひよっこ』。作中では、主人公みね子の父親、谷田部実が物語序盤(4月放送の第8回~)で失踪。そして7月29日放送の第102回で、ついにみね子と再会しました。ですが……なんと記憶喪失になっていたという衝撃の展開!
昔のことをまったく思い出せないまま、茨城の実家に戻った実。農作業などは体が覚えていたようですが、はたして彼はすべての記憶を取り戻すことができるのでしょうか? そして、記憶喪失の真の原因とは!? これから物語がどのように進んでいくのか、目が離せませんよね。
ところで、記憶喪失は実在する精神病の1つ。なのですが、フィクションで描かれる症状とは異なっている部分も少なくありません。そこで、記憶喪失が実際のところどういう病気なのか、「アリエナイ理科」シリーズでおなじみの亜留間次郎氏に解説していただきました!
「記憶喪失」はごくまれな病気
▲精神病の定義や分類、治療はすべて『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM)を基準に行われる。最新バージョンはDSM-5。
現実において記憶喪失は非常に珍しく、精神医学会でも「最も発症例の少ない病気」と言われています。記憶喪失になる人間は、日本全国で年に数十人程度。その上、まったくの身元不明者となると、年に数人しかいないのです。
また、記憶喪失者の男女比は2:1で男が多く、記憶喪失になった患者の90%は3カ月以内に回復しています。発症するのは10代後半から20代の比較的若い層が多いとされています。
さて、記憶喪失とは、「全般性健忘」(Generalized Amnesia)と呼ばれる解離性障害からくる解離性健忘の一種(階層構造は「解離性障害→解離性健忘→全般性健忘」)。DSM-5(『精神障害の診断と統計の手引き』第5版)を元に医師が診断する病名は「解離性健忘」となります。
ちなみに、「全生活史健忘」という日本語が使われていることもありますが、これは誤り。「Generalized」は日本語に訳すと「全般性、全身性、広汎性」となり、「生活史」という意味はありません。論文で「全生活史健忘」と書く場合は「amnesia of personal history」という英語を使います。
記憶喪失の原因とは?
現実世界では、記憶喪失の原因は100%心因性のものです。頭を殴られるなどの外傷によって起きることはありません。マンガなどでは頭を殴られたショックで記憶喪失になって、また強いショックで戻るというのが定番の表現となっていますが、実際にはアリエナイことです。
なので、『ひよっこ』の谷田部実もひったくりに頭を殴られたという話が出てきていますが、それは記憶喪失になった真の原因ではない可能性があります。
現実において、記憶喪失になるのはどんな状況に置かれた人間なのでしょうか? 簡単に言ってしまえば、
「自分のすべてを黒歴史にしたい人」
です。そのため、記憶喪失になっている間は負の要素がゼロで明るいけど、記憶を取り戻すと鬱になってしまうことが多く、治療した後の経過観察が重要だったりします。
「解離性健忘」の種類
「解離性健忘」は大きく5種類に分類されます。自分が誰なのかわからなくなるのは3番目の「全般性健忘」だけ。それ以外は自分が誰なのかは覚えています。
限局性健忘
ものすごく嫌なことがあった期間に発生した出来事を思い出すことができなくなる。事故とか事件に巻き込まれた場合に、その間に起きたことを思い出せなくなったり、戦争体験などをすっぽりと記憶から抹消してしまったりする病気。まあ、病気じゃなくてもよくあることです。
選択的健忘
起きた事件のごく一部だけが思い出せない。記憶の中で特定の一部だけがなくなるパターンで、恋人が死んだことは覚えているのに、恋人について友人と話したことが記憶からなくなったり、恨みは覚えているのに具体的にどんなことをされたのか記憶から消えていたりする。
全般性健忘
「私は誰? ここはどこ?」と、これまでのすべての記憶を失ってしまう状態。我々が一般的に「記憶喪失」と呼んでいるもの。
持続性健忘
特定の時点から後を思い出せなくなる。「最近数年分の記憶がない」といった事例で、酷い目にあったりすると、そこから後の記憶がすべてなくなるのだ。時間が経過したことも忘れてしまうので、実際は20歳なのに「自分は17歳だ」と思っていたり、極端な場合には幼児になってしまうこともある。マンガや小説では、このタイプの記憶喪失もよく見かける。
系統的健忘
ある特定のカテゴリーに関する記憶だけが思い出せなくなる。特定の人物に関する記憶である場合が多く、他の人間のことは覚えているのに、嫌な奴1人分だけ記憶がなくなったりするのだ。記憶喪失になった当人よりも、忘れられた人のほうがダメージを受けるかもしれない。
記憶喪失者が失踪する理由
さて、記憶喪失者が周囲に知り合いが誰もいない状況で発見されるのは、フィクションだけでなく現実でも起こる話。人生黒歴史化願望が根底にあるためなのか、記憶喪失になると皆さん逃げ出します。これを医学用語で「解離性遁走(dissociative fugue)」と呼びます。解離性遁走と全般性健忘をセットで起こすことが多く、むしろ記憶喪失は解離性遁走の症状の一部であると考える学者もいます(「逃げ出した結果として記憶を失うのだ」とする説)。
もともといた場所から逃げ出して、記憶を思い出すトリガーとなるものが周囲にない状況になると記憶喪失が完成。その際に、身分証明書など自分の名前や経歴がわかるものを捨ててしまったりします。だから記憶喪失者が発見されたとき、手がかりになるものを何も持っていないことが多いのです。
ここでさらに解離性同一性障害も発症して、記憶喪失後の別人格が誕生することも珍しくありません。ただ、日常生活や常識的な受け答えは普通にできるので、異常行動が個性の範疇に収まる程度なら、周囲の人が元の人格を知らなければ、気づかれないままであることも多いでしょう。この場合、元の記憶が戻ると、記憶喪失だった期間の記憶がなくなって、記憶喪失中の人格も失われてしまいます。なので、それまで面倒を見ていた人からすると「突然別人になってしまった」と感じられることもあるようです。
記憶喪失の治療と回復の過程
記憶喪失が回復する過程を医学的に分類すると、以下の5段階に分けられます。治療は、基本的に医者に任せるしかありません。素人が無理に治そうとすると、解離性障害のあらゆる症状を起こして壊れてしまうので非常に危険。記憶探しの旅などもってのほかです。強いショックを与えると治るというのもフィクションで、現実の治療法としては主に「麻酔面接」が行われています。
1.意識障害期
「ここはどこ、私は誰?」と言っている時期。意識水準が低く、徘徊したり奇妙な行動を取ったりする意識障害が見られる。
2.無知受動期
活動性が低下した受身な態度が目立ち、周りの言いなりになりやすい。生活史のみならず一般知識に障害がある場合も多く、非常識な行動を起こす不思議っ子になっていることも。
3.記憶回復期
次第に一部の記憶を取り戻す時期。
4.情緒安定期
元の人格に戻ると、記憶喪失だったことを黒歴史化して無関心を示すなど、独自の態度をとる場合がある。記憶喪失中に仲良くなっていても、この期間に入ると冷たくなる。
5.回復後抑鬱期
すべてに否定的になり、将来に対して絶望することも。ときには自殺や自殺未遂を起こす。記憶喪失が治っても鬱病になってしまう可能性が非常に高いため、治療が引き続き必要になる。
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『ひよっこ』はあくまでもドラマなので、フィクションであるという前提で楽しみたいところ。そして、フィクションで描かれることは、必ずしも真実ではありません。ドラマで得た知識をそのまま現実に適用することのないよう、くれぐれも注意してくださいね!
※本記事は書籍『アリエナイ理科式世界征服マニュアル』から一部抜粋し、加筆修正を加えたものです。本書では、映画やマンガなどのフィクションで描かれる「“悪の組織”による世界征服」が現実社会で可能なのかを大真面目に検討しています。支配者になる前に知っておきたい知識が満載!