2017年の夏、6年ぶりにコミックマーケットにサークル参加をした。
本当に本当に久しぶりの参加であり、そのジャンルでは初めての参加だった。
サークル名もペンネームも新設したので過去の参加ジャンルとは一切連続性はない。
盆と暮れという休みがとりやすくはあるが中々時間の取りにくい時期に3日間、国際展示場を押さえて開催される同人誌のお祭りだ。
この3日間でのべ50万人の人たちが参加する。
同人誌だけではなく、グッズや音源、アクセサリーなども置かれコスプレイヤーも企業も集う。
オタクのオタクによるオタクのための祭典。
ブラジルの人たちにとってのサンバカーニバルのようなもの、と例えられていたことがありそれがぴったりの表現だと思う。
今では同人誌の即売会そのものが珍しいものではなく、同人ショップで常時それらは入手できるし、週末には日本全国必ずどこかで即売会が開催されている。
ただコミックマーケットの他の即売会と異なるのは開拓者としての役割を担ってきた点、現行では企業形態をとっているもののあくまでも有志参加者の催しである点が特徴だ。
企業主導の会ではない。
1975年に最初のコミケットが開催され、本年で42周年を迎える。
ほとんど自分の年齢に等しい歴史を有するこの表現の場を慕わしく感じる理由は様々だ。
自分は今年で41になる。ついに不惑の年を迎えてしまったが、そうなるとその呼び名通りあまり物事に動じなくなる。
いわゆるロスジェネレーションで、派遣社員を転々としながら余裕のある時だけ同人活動を行ってきた。
20代の頃は小説家に憧れてコンテストに投稿を繰り返していたが、芽が出ずにやがて諦めた。
人生がこんなにくたびれるものだとは思っていなかった。
コミケットがなかったら。
同世代の知り合いにコミケットについて話をすると反応は様々で大概の人はよく知らない。
開催地について「幕張だっけ」と必ず聞かれるのは有害扱いされた幕張メッセの使用拒否の一件が大きく響いているためだろう。
同世代のオタクではない人々のこの「幕張だっけ?」には少なからず「有害」という意識の根深さが垣間見られて報道の影響力とその功罪を思い知らされる。
少し若い世代、そう20代半ばから30代の人から話をふられることもある。
コミケットに行ってきた、という話をされる。
聞いてみると本当に「行ってきた」という感想で、カタログも買わず同人誌も買わず、ただ「行ってコスプレの人たちと写真を撮影してきた」ということなのだ。
もっと若い世代とは接点があまりない。
けれども恐らく知っている人はよく知っているし、知らない人は本当に何も知らない、その二極化の差が開いているだろうとは思う。
これだけ常設化された同人誌販売会において、コミケットのみにこだわる必然性も薄くなりつつある。
アニメも漫画もゲームもこうまで氾濫する世の中になるとは思っていなかった。
けして、楽なことではないのだ。
コミケットというのは夏も冬も過酷な時期に開催され、とにかく暑いか寒いかで人はたくさんいるし待機列は長いしトイレも並ぶし体力もお金も嘘みたいに吹っ飛んでいく。
だいたいが原稿作業で、腰なんて20代のときにとっくに壊しているのに、本のぎっしり詰まったダンボールを右から左へ動かして、鞄にもどっさり本を詰め込んで移動する。
楽ではない。
楽なことではない。
それでもそこには確かにその人にしか作られない表現媒体が存在していて、その日にしか感じられない熱狂がある。
感性の密林、という言葉はかつて三島由紀夫が同性愛の世界をさしてあらわしたものだが、それに似ている。コミケットにはルールがある。
人を押しのけることなくきちんと並んで、頒布する側も受け取る側も礼儀を固く守ろうという不文律がある。カタログを熟読する必要は必ずある。
サークル参加するとなれば尚更でコミケットアピールを通読しない者にその資格はない。
その理由はそこにいる人たちがただそれらが「好き」というだけで創作している集会だからで、経済理由や政治理念のために行っているわけではないからだ。
感性に沿って活動している以上必要とされるのは礼儀と最低限の規律で、すべてが自発的に生じたものだ。
大半の人は知らない、コミックマーケットを私が知ったのは中学生の時だ。今から30年前なので情報はまるでなかった。
美術を習得するために入った部活で先輩たちが漫画原稿を制作していた。
まだ中学生なのにそんな道具を揃えているだけでなく技術的にも熟達していた。
まるで異文化の宇宙人のように輝いていて、私は驚いた。
そしてコミックマーケットの存在を教えてもらった。
義務教育下ではあまりに情報の不足していたその催しへの思慕は募る一方で、高校生になってようやくその催しに参加した。
まだ何も知らないことばかりだったけれども、カタログがすべてを教えてくれた。
それでも彼女たちの熟達した技術は遠いように感じられた。
つまりはバブルの時代で中学生でも漫画道具を買い与えてもらえる子たちがいて、グッズやイラストを頒布させることが可能だった。私にはそれが不可能だったというだけの話で、それだけで随分なカルチャーショックを覚えてしまい、その溝がそのまま憧れとして強烈に駆り立てられていた。
高校生になり、アルバイトをして友達の家に泊まりこみ、ようやく同人誌を完成させることができた時の喜びは忘れられない。
漫画は描けないので小説とイラストを描いて、けれどもトーンがうまく使えずにおかしな仕上がりになってしまったし、担当した裏表紙の二色刷りはずれていたけれど。
2017年の『C92』の話題として叶姉妹の参加があった。
芸能人が参加するのは初めてではないし、表現したい人たちであるならそのような存在も一切呑み込んでいくのがコミケットの懐の広さだ。
一方でコミックマーケットの高齢化が進んでいるという。
敷居が高い、プロや企業の参加する場としてハードルがあがっているともいう。
事実、コミックマーケットが形成した市場というものがあるのかもしれない。
ここから輩出されたプロの集団や作家は数知れないし、同人誌でファンを集めた創作者がそのままプロになるいう流れはコンテスト方式だけの企業主導の筋道だけではない、新しい可能性を提示してきた。何よりもそれは勢いがあった。
けれども近頃では『pixiv』や『Twitter』の台頭によって、プロになるためにはアナログな即売会だけが必要な場ではなくなりつつある。
SNSで人気を得たデジタルネイティブな世代のクリエイターが即売会に参加しようとして、同人誌の印刷数をうまく見込めずに「苦情」をつけられた、などということも起きている。まず「苦情」なんてものをつける参加者が生まれたことも、デジタル畑出身であるために数が見込めない壁サークルが登場するということも、まったく新しい展開だ。
インターネットの急進的な表現の場の拡大は確実にコミケにも影響している。
まずコミケにはお客様が存在しないことから一般参加者は学ばなければならない。
サークル参加者も最終目的の「表現」を通り越して「参加すること」で落着してしまってはならないのだろう。
コミケットでサークル参加することは楽ではない。
まず表現することを決めて、印刷所に予約を入れて、金と体力を見込んで原稿に取り組む。
スケジュール管理が重要であるけれども現実は様々な障害をふりこんでくるし、そもそもが大半はうまく進行しない。締切り間近で「公式」(二次創作におけるその原作の意)が無闇に情熱をかきたてるような供給をしてきたりもする。
けれども、楽しいのだ。
数年前、自分は昼過ぎに起きて一般参加したときのことを記述した。
その時も結局はこの場と離れられない心境を綴った。
確かにコミケットの話題に上がる部分だけをなぞれば、敷居が高くなりつつあるのかもしれない。
あまつさえ2020年の黄金週間には五輪を控えて会場の使用が制限されることと引き換えに、歴史的な瞬間を迎えようとしている。『DOUJIN JAPAN 2020(仮)・コミックマーケット98』の開催だ。コミケット準備会だけではなく、赤ブーブー通信社やコミティア実行委員など、即ち創作同人即売会の大手たちが一堂に会して催しが行われようというのだ。
仮の名前ではあるが国内だけの参加者だけを意識しているわけではないことが窺える。
実際、海外からの参加者は増えている。
今年の夏に私が久しぶりに参加して驚いたことのひとつとして、外国からの参加者の明らかな増加ということがあった。同人ではなく「DOUJIN」とは。出版業界でも確かこんな具合に社名を変えたところがあった。最早日本だけのものではなくなりつつある、ということだろう。実質夏と冬の二回開催であった集会が黄金週間に集約されることで、結局、競争率は高まるのかもしれない。
どれだけの人が集まるのか知れない。
何故みんなコミケットに参加するのだろう。
新刊の帯やお品書きのための紙やその他の雑貨をあれこれと買い物をした。
もうクリスマスも終わって町には人が少ない。
凍える中空に月が映えているのを見た。ふと高校生の頃のことを思いだした。
まだコミケットの会場は晴海だった。バイト先でできた友達が同じティーンズ向けの少女小説にはまっていて、いわゆる「腐女子」仲間だった。当時はそんな用語も存在しなかった。同人誌をつくろうという話が持ち上がり、原稿制作のためにその子の家に泊まりこんだ。
そのマンションにはすぐそばにコンビニがあって、買出しのために外へ出た。
あたりは畑ばかりの土地で、ただ大きな月が輝いていて、何て楽しい夜だろうと感じた。
こんなに楽しいことはないだろう、と思った。
教室で誰も彼もが花のように話題を咲かせるのは女の子なら色恋のこと、男の子なら成績のことばかりだった。
私たちの世代が受験戦争と偏差値教育の被害者であったことは言うまでもない。
両親のために彼らは心を尽くして生活していた。健全な家の子がオタクになりにくいという一面はあるのだろうと今でも思う。
彼らにつながりを感じられない、他者の共感の得られない思春期を過ごした。
逃れて逃れて空想と創作との情熱を共有できる誰かとめぐり合えて、その逃避の果ての一晩だった。洗礼のような月だった。
もうその子と連絡はとっていないし、私が準備する新刊は当時は影も形もなかったジャンルだ。
けれどもいつでも本当に求めるものを追ってきた。
確かに不安なことは多いかもしれない。神様レベルの戯作者も化け物クラスの漫画家もごった煮になるあの恐ろしい集会。
畏怖を覚えることもある。けれども、創作の楽しみはあの夜とつながっているのだろう。
数年前は色々の事情で参加できずに悔しかった。
ちょっと事情が安定しただけでもう堪えきれない。面倒な手続きも苦心する原稿も乗り越えて当日を前にわくわくしている。
確かにたくさんのプロフェッショナルを輩出していても、基本的にコミケットはアマチュアのための場所であるのだと思う。
名もなき私たちのための場だ。だからあの場所は続くのだろう。
昼過ぎにのんびり参加するのも好きだ。
けれども今回はサークル参加だ。
もう若くはないので寒さは殊更こたえるだろう。久しぶりに同人活動を再開した前回ほどには人は集まらないかもしれない。
もう意味はないのかもしれない。
けれども明日は目覚ましを早めにセットするだろう。
前回に活動を再開した時、思いがけないほどに幼い、小学生か中学生くらいの女の子がきてくれたのを覚えている。
緊張した面持ちで、安価ではないその本のためにお財布から丁寧にお金を出して渡してくれた。
その価値を私は知っていた。洗礼のようなあの月に焦がれるような気持ちが彼女にもあるのだろうと思う。
それで充分だ。
事を為す時にそれが誰のためになるかはわからない。それでいいのだ。
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(執筆者: 小雨) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか
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