錯覚は脳ではなく目で起きていました。
オーストラリアのフリンダース大学(Flinders)で行われた研究によって、「拡大する穴の錯覚」は脳の働きではなく、網膜特有の信号処理によって引き起こされている可能性が高いことがわかりました。
これまで錯覚は一般的に脳の情報処理の混乱により発生と考えられてきましたが、今回の研究により、脳より遥か手前の「目の段階」で信号に混乱が起こるケースがあることが示されました。
今回の発見は、他の錯視現象や自然界に見られるパターン(目の段階での錯覚を促すようなパターンがあるか)を解明する手がかりにもなると期待されています。
研究内容の詳細は2025年1月15日に『arXiv』にて「拡大する穴の錯覚の生物学的妥当性モデル:網膜処理と錯覚的運動に関する洞察(A Bioplausible Model for the Expanding Hole Illusion: Insights into Retinal Processing and Illusory Motion)」とのタイトルで公開されました。
目次
- 見つめていると穴が拡大していく錯覚
- 「拡大する穴の錯覚」はどこで起きているのか?
見つめていると穴が拡大していく錯覚
私たちが「見ている」と思っている世界と、本当の物理的な世界が完全に一致しているとは限りません。
その“ズレ”がわかりやすい形で現れるのが錯覚(イリュージョン)です。
コントラスト(明るさや色の差)や形のパターンなど、ちょっとした要素の組み合わせによって、私たちの視覚は簡単に「だまされ」てしまいます。
たとえば、静止画なのに動いているように見える回転錯視や、平面的な図形が立体的に見える錯視など、さまざまな種類が知られています。
こうした錯覚を研究することで、脳がどのように視覚情報を処理しているか、つまり「何を頼りに世界を『再構築』しているのか」を探る手がかりが得られます。
ただ一口に錯覚と言っても、その原因はさまざまです。
たとえば、「回転する円の錯視」の一部は、脳内の視覚情報処理における“通信の遅れ”や、目が微妙に揺れ動くマイクロサッカードと呼ばれる現象によって引き起こされる場合があります。
一方、錯覚の中には脳の高次処理ではなく、目(網膜)そのものの性質が大きく関わっている可能性が示唆されています。
つまり、同じように「動いているように見える」錯覚でも、原因が脳の奥で起きているのか、それとも網膜や目の動きなど初期段階にあるのかで、メカニズムは大きく異なるのです。
今回注目されている錯覚は、中央に黒い穴のような部分があしらわれた図形を見ていると、まるでその穴が「奥へ奥へ」と広がっていくように感じられる現象です。
「ホワイトホール」と呼ばれる、逆に中央が白いパターンでは、眩しい光に近づいていくような感覚が生じ、実際に瞳孔が縮む生理反応も観察されています。
このように、たった1枚の静止画が私たちの視覚を欺き、暗い場所へ移動しているかのように錯覚させるのはなぜなのか――それを明らかにすることは、視覚研究の大きなテーマの一つになっています。
そこで今回、フリンダース大学の研究者たちは「拡大する穴の錯覚」が起こる仕組みを解明することになりました。
「拡大する穴の錯覚」はどこで起きているのか?
「拡大する穴の錯覚」はどこで起きているのか?
調査にあたって、研究者たちはまず網膜に存在する神経節細胞(Ganglion Cells)と呼ばれる細胞群に注目しました。
これらの細胞は、目に入ってきた光(視覚情報)を脳に送る最終ステップを担うだけではありません。
隣り合う細胞同士で情報をやり取りしながら、映像の「暗い部分を少し持ち上げる」「明るい部分は押さえる」といった補正を行っていると考えられています。
たとえば暗い夜道でもある程度モノが見えるのは、こうした網膜レベルの自動調整の働きが大きいからです。
これらの細胞は“近所の細胞”同士でも信号をやり取りしています。
そのため、「ここは暗い」「いや、こっちも暗いぞ」とお互いが暗さを増幅し合うような現象が起こる場合があります。
研究チームは、網膜神経節細胞の“中心‐周辺”と呼ばれる性質を、DoG(Difference of Gaussians)というフィルタを使ってコンピュータ上で再現しました。
すると、中央が暗いと「もっと暗い情報を強調しよう」とする一方で、その周辺は逆に「暗さを減らす」ように抑制し合います。
このような仕組みが、簡単な数式処理(フィルタリング)で表現できるのです。
その結果、暗い領域を補正しようとする細胞どうしの情報交換が“中心部の暗さ”を「誇張」する反応を起こしていることがわかりました。
たとえば、暗い領域の中央を見ている神経節細胞が「ここはかなり暗いぞ」と隣の細胞に伝えます。
すると、その隣の細胞も「じゃあ私のところも同じくらい暗いのかもしれない」と影響を受けるような仕組みがあったのです。
研究では、それが連鎖的に広がると、実際よりも暗い部分が拡がっているように脳が受け取ってしまう可能性が示されました。
つまり、脳が「3Dの穴が広がっている」と高次的に推測する前の段階で、網膜の神経同士のやり取りだけで“錯覚を作るもと”が生まれているというわけです。
研究者たちは「隣り合う網膜細胞が互いにどのように影響を及ぼし合うのか、これを解き明かす手法を他の錯視や視覚現象の研究にも生かしたい」と述べています。
今回の研究では、網膜の神経節細胞レベルだけでも「拡大する穴」の錯覚を再現できることが示されました。
これは、脳の高次処理だけでは説明しきれない他の錯視や動きの錯視を理解するうえでも重要な手がかりとなり得ます。
今後は、さまざまな形状や色合いの静止画・動画を対象に、同様のモデルを適用し、網膜がどの段階でどのような錯覚を生み出すのか、より詳しく調査していくことが期待されます。
この網膜モデルは「シマウマの縞」や「蝶の羽の模様」など、動物界に見られる複雑なパターンの理解にもつながるかもしれません。
高コントラストの模様が網膜上でどのような情報処理を経て脳に伝わり、捕食者からの隠蔽や求愛行動などの機能を果たしているのか、解明が進むことが期待されます。
人間の目と比べ、デジタルカメラではうまく表現できない明暗のコントラストを、網膜モデルをもとにした画像処理技術で補正できる可能性も考えられます。
この研究で示された網膜神経節細胞の「中心・周辺抑制」や「ローカルコントラスト補正」の仕組みを応用すれば、より人間の“実感”に近い映像再現を目指す技術開発が進むかもしれません。
元論文
A Bioplausible Model for the Expanding Hole Illusion: Insights into Retinal Processing and Illusory Motion
https://doi.org/10.48550/arXiv.2501.08625
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部