人類の最良のパートナーである犬がオオカミから進化したことはよく知られています。
野生のオオカミは獰猛で攻撃的であり、人に近づくことはしませんが、約2万〜4万年前に一部の比較的大人しいオオカミたちが人間の食べ残しを漁りにやってきました。
その中で人とオオカミの交流が始まり、大人しい性格のオオカミ同士をかけ合わせることで、人懐っこくて穏やかな犬が誕生したのです。
オオカミの「家畜化」による犬の進化は何千年という長いスパンで起こりましたが、旧ソ連の遺伝学者だったドミトリ・ベリャーエフ(1917〜1985)はこう考えました。
「人の手で実験的に交配を操作することで、他の動物でもより短い期間で家畜化できるのではないか?」
こうして始まったのが「家畜化実験」です。
この実験は40年以上にわたって続けられますが、その結果、驚きの生物が誕生します。
目次
- ソ連で遺伝学を研究するのは「死」を意味した⁈
- 「家畜化実験」の始まり
- ついに「見た目」まで激変し始めた!
ソ連で遺伝学を研究するのは「死」を意味した⁈
ベリャーエフは1934年に農業大学に入学し、遺伝子の研究を始めます。
しかし当時のソ連で遺伝学の道に進むのは実に危険なことでした。
というのも西洋社会ではその時、親の見た目や性格などは遺伝子によって子に伝わるとする「メンデルの遺伝学」が大きく支持されていました。
ただこれは見方を変えれば「人の運命は遺伝子によって決まる」とも捉えることができ、階級闘争や社会主義的な進歩を掲げるソ連の政治的イデオロギーとは相反していたのです。
そこでソ連の著名な生物学者だったトロフィム・ルイセンコ(1898〜1976)は「見た目や性格は遺伝子ではなく、育った環境でいくらでも変わる」と、メンデルの遺伝学に真っ向から反対する学説を唱えます。
そしてこれを大いに支持したのがソ連の最高指導者スターリン(1878〜1953)だったのです。
こうしてソ連では1920年代から国全体でメンデルの遺伝学を否定し、ルイセンコの理論を支持する「ルイセンコ主義」が急速に拡大します。
その中でメンデルの遺伝学を研究していた学者たちは仕事をクビにされたり、牢獄に収容されたりしたのです。
そのせいで死に至った遺伝学者も多くいました。
ベリャーエフの実の兄で遺伝学者だったニコライもこの時に命を落としています。
ベリャーエフ自身も周りにバレないようこっそりと遺伝子の研究をしていたのですが、1948年にバレて一度クビになります。
ところが1953年にスターリンが死去したことで、ソ連内での遺伝学の規制が徐々に緩和されていきました。
そしてベリャーエフは1958年、シベリアに新たな遺伝学研究所を創設し、本格的に遺伝子の研究を開始します。
そこで彼が着手したのが「家畜化実験」でした。
では、ベリャーエフが家畜化の実験台に選んだ動物は何だったのでしょうか?
「家畜化実験」の始まり
家畜化は飼育とはまったく違います。
飼育は動物の性質はそのままに、餌や住居を与えて育てることです。
なのでライオンやトラなど、飼育はできても獰猛な性格を遺伝的に変えることはできません。
一方の家畜化は、ある特定の性質(大人しいとか人懐こい)を持った個体同士をかけ合わせ、それを何世代にもわたって繰り返すことで、その動物自体を人間が管理しやすい種に変えてしまうことを意味します。
ただ家畜化は思ったよりも難しい作業であり、人類がこれまでに成功した例はわずかです。
6000種いる哺乳類の中でも家畜化できているのは数十種であり、その中でも世界中で家畜化できているのは「ウマ・ヒツジ・ブタ・ヤギ・ウシ」の5種くらいしかいません。
なぜこんなに家畜化が難しいのかというと、家畜化できる動物はいくつかの条件を満たしていなければならないからです。
その条件とは例えば、
・気性が穏やかで、元から比較的大人しいこと
・人が近くにいたり、飼育下に入れられてもパニックにならないこと
・いろんな餌に適応し、わりかし何でも食べること
・人目があったり、飼育環境下でもスムーズに繁殖してくれること
・子供から大人へと成長スピードが速いこと
などです。
そこでベリャーエフはこれらの条件を満たす動物を選び、人の手で集中的に交配を操作すれば、犬よりもずっと短いスパンで家畜化が起こるのではないかと考え、実験を開始しました。
そうして選ばれたのが「キツネ」です。
特にベリャーエフが選んだのは、黒と白の体毛が特徴的な「ギンギツネ(Silver fox)」でした。
キツネは元来、遺伝的にオオカミに近い動物であり、ギンギツネも野生個体では人への警戒心や攻撃性が強く、懐くような種ではありません。
ただベリャーエフは「犬の祖先もオオカミだし、キツネでもいけるやろ」と考えました。
ベリャーエフら研究チームはまず、比較的大人しく、か弱い性質を持っているギンギツネを集め、オス30頭・メス100頭で家畜化実験をスタートします。
そして翌1959年に最初の子供たちが生まれました。
生まれた子供たちには定期的に、どのくらい人懐っこくて大人しいかを評価するためのテストを行い、それをもとに3つのグループに分けています。
1つ目はかなり人懐っこくて大人しい性質を持つグループ。
2つ目は人に触られることは嫌がらないものの、それほど人懐っこくはないグループ。
3つ目は人懐っこくもないし、全然なつかないグループです。
さらにチームはそれぞれのグループごとに、同じ性質を持ったキツネ同士で交配を続けました。
このとき、キツネに対して調教などは一切せず、純粋に遺伝的なかけ合わせのみによる変化を観察しています。
加えて、近親交配のしすぎで遺伝子に支障が起きないよう、定期的に他の農場から同じ性質を持つキツネを集めて、それぞれのグループ内に導入しています。
その結果、世代を経るごとに1つ目のグループのキツネたちはますます人懐っこさや従順さを増していき、野生のギンギツネとは大きく異なる穏やかな性質を持ち始めました。
そしてついにキツネたちは中身だけでなく、見た目も大きく変貌させ始めるのです。
ついに「見た目」まで激変し始めた!
実験開始から5年が経つ頃、従順さを増したキツネたちに行動面での大きな変化が表れます。
人に対して甘えた鳴き声を発したり、積極的に手を舐めたり、自ら仰向けになってお腹を撫でさせたり、犬のように尻尾を振り始めたのです。
またこれらの行動は子供だけでなく、大人になっても続けられました。
そしてキツネの子供たちが10世代になる頃には、中身だけでなく見た目まで変わり始めたのです。
ギンギツネは黒と白の体毛がスタンダードなのですが、グループ内でも特に従順で大人しいキツネたちは赤茶色の体毛に変わっていきました。
それから大人になっても耳がピンと立たず、垂れ耳のままになっていたり、尻尾がくるりと丸まっていたり、攻撃的で警戒心の強いグループに比べて、頭蓋骨が小さく、鼻面が短くて丸くなっていたり、脚の長さが短くなったのです。
これらは野生のオオカミと家畜化された犬に見られる違いとして知られています。
家畜化されたギンギツネたちは性格が大人しく従順になるだけでなく、見た目が大人になっても子供のような愛らしさを保っていたのです。
これは野生では見られない、まったく新しいギンギツネたちでした。
この変化について、共同研究者のリュドミラ・トルート女史(1933〜2024)はこう説明しています。
「野生下のギンギツネは成長して親元を離れると、顔や体型を生存競争に適した形に変化させます。
長く尖った鼻先は獲物を捕らえる際に、さまざまな狭い場所に突っ込みやすい利点がありますし、長い脚は獲物を追いかけたり、天敵から逃げるのに適しています。
しかし飼育環境では厳しい生存競争から解放され、自然の選択圧がなくなるので、行動や体型の幼体化が起こったと見られます」
要するに、人に飼育されるキツネにとって、最も生存競争に適した特徴は「人に好かれること」なのです。
飼育環境で生き残るために、キツネたちは人が好きそうな可愛らしく、穏やかな性質を自然選択したと考えられます。
さらに家畜化実験の中で最上級に従順で大人しいキツネの血液を採取し、反対に最も攻撃的なキツネたちの血液を比較したところ、従順で大人しいキツネたちは血中のコルチゾール値(ストレスホルモン)が非常に低くなっていました。
それだけでなく、気分の向上や不安の低減につながる「セロトニン」の量が大幅に増えていたのです。
つまり攻撃的なキツネたちに比べて、精神的にも非常に安定した個体になっていることを示していました。
その後、ベリャーエフは1985年(享年68歳)に家畜化実験の道半ばで亡くなってしまいますが、研究はリュドミラ・トルート女史が引き継いでいます。
トルート女史は実験の成果を1999年に論文としてまとめて、世界的に大きな反響を呼びました。
彼らの実験は野生下でなら何千年もかけて行われる家畜化を、わずか数十年で実現させたものとして遺伝学者たちに驚嘆されたのです。
もうこの頃には、研究所のギンギツネたちはペット犬のように従順で人懐っこく、人とも普通に屋内で共同生活できるようになっていました。
野生時代の牙は完全に抜かれ、愛らしいペットキツネに大変身を遂げていたのです。
ベリャーエフが始めた家畜化実験は、か弱い個体同士をかけ合わせ続けることで、その種のスタンダードとなる性質を遺伝的にガラリと変えられることを証明した歴史的な研究となっています。
参考文献
The Daring Russian Geneticist Whose Experiments on Silver Foxes Explained Domestication Has Died
https://www.scientificamerican.com/article/the-daring-russian-geneticist-whose-experiments-on-silver-foxes-explained/
元論文
The silver fox domestication experiment
https://doi.org/10.1186/s12052-018-0090-x
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
ナゾロジー 編集部