現代でも地下資源を巡る争いは世界各地で起こっており、これにより戦争にまで発展しているケースも存在します。
日本の戦国時代においても地下資源は大切なものであり、それを巡って合戦が起こることもしばしばありました。
果たして戦国大名はどうやって鉱山を運営していたのでしょうか?
この記事では著名な戦国大名・武田信玄がどうやって金山をはじめとする鉱山を運営をしていたのかについて紹介しつつ、どのような目的で鉱山を採掘していたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、新関敦生(2010)「『地質学と歴史との境界領域 其のII』 : 地下資源開発からみた戦国時代の一断面」新潟応用地質研究会誌60巻p. 35-56に詳細が書かれています。
目次
- 城攻めでも活躍した金鉱労働者、技術革新により鉱山開発が進んだ戦国時代
- 地下資源を巡った戦争もあった戦国時代
- 鉄砲ではなく弾丸の数の差であった長篠の戦い
城攻めでも活躍した金鉱労働者、技術革新により鉱山開発が進んだ戦国時代
戦国の世を彩る金山の営みは、何とも興味深い物語です。
初めは河川の砂金採取から始まった金銀採掘も、次第に山岳地帯へと足を伸ばし、山金の露天掘りや鉱脈を掘り進む「鑓(やり)追い掘り」という技術へと進化しました。
この金掘りの最前線に立ったのは「金掘衆」や「金山衆」と呼ばれる者たち。
彼らの土木技術は高く評価され、時には戦場での城攻めにまで借り出されるほどでした。
たとえば、信玄が駿河国(現在の静岡県中部)を手に入れるために行った深沢城(現在の静岡県御殿場市)の石垣崩しや遠江(現在の静岡県西部)・三河(現在の愛知県東部)を平定する遠征で行った野田城(現在の愛知県新城市)の水井戸の水の手断ちなど、彼らの技は城攻めの名場面をいくつも生んだのです。
金山の経営はと言えば、領主が直轄する例は少なく、山主や山先がその所有者となるのが通例でした。
上杉謙信は越後や佐渡の諸鉱山から上納金を受け取り、武田信玄も甲斐や信濃、駿河の金山から同様の収益を得ていたのです。
しかし、例外的に信玄は他国の津具鉱山(現在の愛知県北設楽郡設楽町)に奉行を送り込み、稼業を直轄した例もあります。
技術の革新もまた、この時代の金山を輝かせました。
唐から伝わった鉛灰吹法という冶金術は、石見銀山を皮切りに日本各地へ広がり、鉱山開発を一段と発展させたのです。
炭火とふいごで鉛を解かし、金銀を分離するこの技法は、骨灰を使って鉛を蒸発させる二段階の手法を伴い、金銀塊を精錬する画期的な技術でした。
このようにして、戦国時代の金山は技術革新と人々の情熱が織り成すドラマの場となり、山々は煌めき、歴史に刻まれたのです。
まさに、土と炎が創り出す戦国の黄金劇場といえるでしょう。
地下資源を巡った戦争もあった戦国時代
このように戦国時代は金山の採掘がおこなわれていましたが、採掘が行われていたのは何も金山だけではありません。
たとえば1543年に鉄砲が伝わり、その後各地で鉄砲の製造が行われるようになりました。
しかし当然ですが、鉄砲を撃つためには鉄砲に込める弾丸が必要であり、そのため弾丸の材料になっている鉛の需要が高まりました。
鉛は融点が低いおかげで丸く整形しやすく、重いため風にも流されにくいこともあり、その安定感と扱いやすさから、弾丸の材料として好まれていたのです。
また先述したように当時の最新の技術では金や銀を錬成するためには鉛が必要であったこともあり、金山や銀山を保有している大名の鉛の需要は高まりました。
そのため武田信玄など、戦国を彩る名だたる武将たちは、領地を越えて鉛鉱山を奪い合ったのです。
その信玄が手に入れようとしていた鉛鉱山として知られているのが、今の愛知県鳳来町大野にあった鉛山です。
この地には修験者や鉄山師が鉛を採掘していました。
その中でも名を挙げるべきは、小林三郎左衛門尉の一族。
彼らが鉛鉱山を掘り当て、その技術を駆使して鉛を採掘していたのです。
この「鉄山師」という言葉、いかにも戦国時代らしい響きであります。
鉄や鉛に人生を賭けた人々がこうして名を残しているのだから、当時の鉛の重要性がどれほどのものだったかが伺えます。
さらに武将たちは、名刀を鍛える技術を求め、優秀な刀鍛冶を新たな領地から連れ去り、自国で刀槍を製作させました。そして刀の手入れには欠かせぬ砥石もまた重要な資源であり、その産地を巡る争いも熾烈を極めていたのです。
三河で採掘されていた三河白などが有名であり、この砥石で研ぐことで切れ味のいい刀や槍を作り上げていました。
こうして戦国の世は、武器と資源、技術を巡る熾烈な争奪戦によって動かされていったのです。
武田信玄が晩年に行った遠江・三河の遠征の主目的についてはいまだに議論は分かれていますが、先述した金山や鉛鉱山、砥石鉱山の確保が主目的であった可能性はあり、そうでなくても地下資源の確保は重要な目的の一つであったでしょう。
鉄砲ではなく弾丸の数の差であった長篠の戦い
余談ですが1575年の長篠の戦いは、織田・徳川の連合軍が鉄砲を用いて武田騎馬隊を破った戦いとして語り継がれています。
しかし当時の武田軍も鉄砲隊を抱えており、もちろん長篠の戦いにも従軍していました。
では、両軍の違いは何だったのでしょうか。
織田軍が長篠で見せつけたのは、鉄砲の数以上に、弾薬の「豊富さ」でした。武田勝頼は長篠の戦いの後、「鉄炮一挺につき二〜三百発の玉薬を備えよ」と指示を出しています。
これまで弾薬の具体的な数量に言及しなかった武田軍が、このような指示を出した背景には、織田軍の絶え間ない弾幕に屈した体験が刻み込まれていたことでしょう。
鉄炮玉の調達状況もまた、両軍の明暗を分けました。
長篠古戦場から発見された鉄砲玉を分析した結果、織田家は日本国内だけでなく、中国、朝鮮、果てはタイの鉱山からも鉛を輸入していたことが判明しています。
一方、武田家は渡来銭を鋳つぶして銅製の鉄砲玉を作るほど、玉薬確保に苦心していました。
先述した鉛山も正確な時期はわからないものの、遅くとも長篠の戦いの直前には徳川家に奪われており、十分に弾丸を用意することができなかったのです。
織田信長は京や堺を掌握し、南蛮貿易や東アジア貿易の恩恵を受けていました。
その経済基盤が、鉄炮と玉薬の豊富さを支えていたのです。
一方、内陸国である甲斐(現在の山梨県)や信濃(現在の長野県)に根を下ろした武田には、その恩恵は届きにくかったです。
さらに信長は、武田や北条といった敵対勢力への経済封鎖をも行ったとされています。
こうして見ると、長篠の戦いは鉄砲対騎馬といった図式に収まらず、弾丸の数の多寡といった構図であることが窺えます。
参考文献
新潟大学学術リポジトリ
https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/25174
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部