病気や体調不良で「点滴」を受けたことのある人なら、点滴中に動き回れないことを不便に感じたことがあるかもしれません。
特に短時間投与ではなく、24時間投与が必要な患者さんの場合は、輸液バッグを吊るす点滴スタンドと常時一緒に移動しなければならないため、トイレに行くのも大変です。
移動時に転倒するなど、点滴スタンドならではの危険も潜んでいます。
そこで国立研究開発法人 産業技術総合研究所(産総研)に所属するチョン・カーウィー氏ら研究チームは、大気圧とピストン、加圧用空気バッグを用いた「吊るさない点滴」を開発し、医療機器として登録しました。
この方法なら点滴スタンドは必要なく、輸液バッグを鞄に入れて、どこにでも持ち運べます。
点滴スタンドは流量調節装置など技術的な改良は進んでいますが、基本構造は20世紀初頭から変わらず、患者の移動制限という課題が残っていましたが、この装置はこれを解決するものになると考えられます。
研究の詳細は、2024年11月3日付の産総研の『ニュース』にて発表されました。
またこの装置の仕組みについては、2022年と2023年にそれぞれ科学誌に論文が掲載されています。
目次
- 従来の「重力による吊り下げ点滴」の限界
- 大気と真空の差圧を利用した「吊るさない点滴」
従来の「重力による吊り下げ点滴」の限界
点滴は、水分や栄養を補充したり、継続的に薬剤を投与したりしたい時に採用されます。
熱中症、下痢や嘔吐などが原因で多くの体液を失った場合、自分で薬や水を飲むことができない場合、抗がん剤など急速に投与すると副作用が起きる場合に活躍しています。
このように、点滴は一定の流量を維持しながらゆっくりと輸液を投与できるため、古くから利用されている治療法です。
点滴治療が広く普及し始めたのは、1832年頃コレラの流行時に脱水症状を解消するためだったと言われますが、この当時の点滴は医師や看護師が注射で慎重に注入していくというもので、現代のような吊り下げ式ではありませんでした。
重力を利用した吊り下げ点滴が登場したのは20世紀初頭からとされています。
この方法は、輸液バッグを点滴スタンドに吊るし、重力によって生じた圧力で輸液を患者の静脈に投与します。
重力を利用した吊り下げ点滴が登場したことで、輸液の流量の調節や長時間の投与が容易になり、医療現場の効率化や患者への負担軽減が大きく進みました。
そのため非常に画期的な発明ですが、この点滴の方法は、患者の自由度が低く、どうしても移動制限が生じてしまいます。
「ちょっとトイレに行きたい」という時にも、スタンドを押していかなければいけません。
またそのような移動時にスタンドが転倒する事故リスクもあり、輸液バッグが誤って落下した場合には、血液の逆流事故が生じる恐れもあります。
こうした欠点は特に長時間の投与をする場合に問題になります。
吊り下げ点滴は細かい技術改善が続いていますが、100年近く前と基本構造が変わっていないことを考えると、これらの問題を考慮した改善があってもいいかもしれません。
そこで産総研のチョン・カーウィー氏ら研究チームは、重力に頼らない新しい点滴の形を開発することにしました。
大気と真空の差圧を利用した「吊るさない点滴」
「吊るさない点滴」を実現するためには、重力に頼らずに、輸液に圧力を付加しなければいけません。
またその駆動力を電気に頼ってしまうと、災害時における使用が難しくなってしまいます。
また、輸液バッグ内の薬液に安定した圧力として伝達したいと考えました。
安定した投与量の点滴は、患者の治療効果の最大にし、安全を守る上で重要だからです。
そこで研究チームは、真空ピストンシリンダーを駆動力として採用しました。
画像のような真空ピストンシリンダーと加圧用空気バッグを用いるなら、大気と真空の差圧を利用して、能動的かつ安定して、輸液バッグに圧力を加えていくことができるはずです。
実際、試作した「寝袋型の空気バッグ(寝袋のように空気バッグが輸液バッグを包む形式)」は、ある程度、吐出量を安定させることができました。
しかしグラフから分かる通り、「寝袋型」は、時間が経つにつれ吐出量が安定しなくなり、従来の「吊り下げ点滴」と同じ吐出性能には至りませんでした。
研究チームが調査した結果、圧縮された輸液バッグの表面にしわが生じることで、内部の薬液に圧力が効果的に伝達されないことが原因だと判明しました。
そこで試行錯誤を繰り返し、分離した2つの空気バッグで輸液バッグを挟むような「サンドイッチ型の空気バッグ」にたどり着きました。
この形状であれば、空気バッグと輸液バッグの接触面を密着させて、しわをサンドイッチの両外側に伸ばすことができ、後半でも吐出量が安定します。
そしてこれにより、従来の「吊り下げ型」と同等の吐出性能を達成できました。
産総研は、このサンドイッチ型の機構に関して特許出願を行いました。
そして既に医療機器として登録されています。
研究チームは今後、携帯性と操作性の向上を目指して、更なる技術開発を進める予定です。
この「吊るさない点滴」が使用可能になるなら、患者たちの自由度は高まるはずです。
ショルダーバッグなどに入れて簡単に持ち運べるため、病院施設内や住宅内を比較的自由に移動できます。
また電源も必要ないため、災害現場や緊急移送時にも活躍するはずです。
これまでありそうでなかった「吊るさない点滴」の実現を、多くの人が待ち望んでいることでしょう。
参考文献
「吊るさない点滴」が医療機器に
https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2024/pr20241113_2/pr20241113_2.html
元論文
Optimum Pressurization Mechanism for a Non-Electrical Piston-Driven Infusion Pump
https://doi.org/10.3390/app12178421
Measurement of the infusion flow rate of a novel non-electrically driven infusion pump in determining the influencing factors on its flow performance
https://doi.org/10.1016/j.measurement.2023.113229
ライター
大倉康弘: 得意なジャンルはテクノロジー系。機械構造・生物構造・社会構造など構造を把握するのが好き。科学的で不思議なおもちゃにも目がない。趣味は読書で、読み始めたら朝になってるタイプ。
編集者
ナゾロジー 編集部