アメリカのワシントン大学(UW)で行われた研究により、細胞の経験した複数の記憶を同時にDNAに刻み込む技術が開発されました。
この技術を使って収集された情報は細胞分裂後も維持され、次世代の娘細胞にも継承されます。
さらに研究では細胞に刻まれた情報を時系列に従って正確に読み取ることにも成功しました。
研究者たちは「いつの日か細胞の全歴史を記録できるようになるだろう」と述べています。
研究内容の詳細は2024年7月17日に『Nature』にて発表されました。
目次
- 細胞の記憶をDNAに書き込む
- ENGRAMの仕組みをわかりやすく解説
細胞の記憶をDNAに書き込む
人気のSF作品「アサシンクリード」シリーズでは、アサシンだった先祖の記憶がDNAに刻まれ、子孫である主人公に継承される、という設定が使用されています。
主人公はDNAの読み取り機を通じて先祖の記憶を獲得することで、最終的に先祖のアサシンの能力を身に着け、現代世界に張り巡らされた巨大な陰謀に挑むことになります。
このような「記憶をDNAに刻む」や「記憶を遺伝させる」という設定は、他の多くのSF作品にも取り入れられていますが、現実の科学ではありえないと考えられていました。
こうした設定を聞いたとき、確かにDNAは情報を継承する仕組みではあるけれど、「経験のような記憶もDNAには保存されるのか?」と疑問に思った人は多いでしょう。
近年のマウス研究などでは親世代の精神状態や発育状態が、次世代に遺伝することが徐々に明らかになってきましたが、それらの情報はDNA本体ではなく、DNAに付着する化学物質(メチル基)の位置が原因であることが示されています。
つまり現実世界では、ゲームの設定のように生物の細胞に経験した記憶をDNAに刻む仕組みは存在していません。DNAの中に先祖の経験した記憶が眠っているということもないのです。
ところがワシントン大学で行われた新たな研究は、飛行機のフライトレコーダーのように細胞の記憶をDNAに書き込み保存する画期的な技術「ENGRAM(エングラム)レコーダーシステム」を開発したのです。
この名前は「Enhancer-driven genomic recording of transcriptional activity in multiplex(多重化された転写活性のエンハンサー駆動ゲノム記録)」の頭文字をとったものですが、研究者たちは名付ける際に、古くから記憶痕跡の意味で使われる「ENGRAM(エングラム)」をヒントにしたと述べています。
人間の細胞にはSF作品のように記憶をDNAに刻む仕組みはありませんが、新たな研究は遺伝子操作でそれを後付けで追加し、細胞が記憶をDNAに「書き込める」ようにしたのです。
そのためアサシンクリードを彷彿とされる技術ではありますが、これはDNAから記憶を読み取る技術ではなく、DNAに記憶を書き込む技術の話になります。
しかしいずれにせよ、DNAと記憶に関するすごい技術の話であることに違いはありません。
研究ではこの技術を使用して、幹細胞が疑似な胚(ガストロイド)に変化する際に細胞内でどんな遺伝子が活性化したか、またはどんなシグナルが伝達されたかを後から読み取ることに成功しています。
他にも研究者たちはストレスに対する細胞反応、感染に対する免疫反応、および細胞の生存を助けるシグナルも追跡することに成功しました。
これまでにも細胞で起きた反応をDNAを介して記録する技術はありましたが、既存のものは記録できる反応が1個だけだったり、また複数記録できたとしても時系列情報がないなどの問題がありました。
たとえるならば前者はさまざまな歴史イベントのうち王の即位しか記録してくれない歴史家で、後者は複数のイベントの時系列をバラバラに記録してしまう歴史家と言えるでしょう。
しかしENGRAMは各シグナルを現わすために5~6塩基対のみを使用し、理論的には1024~4096種類の異なる生物学的反応を同じ細胞内に時系列に沿って記録されます。
再び歴史家の例えを使うならば「ENGRAM」は複数のイベントを時系列順に書き込みできる歴史家となります。
加えてENGRAMによってDNA内に刻まれた情報は非常に安定しており、細胞分裂後の娘細胞にも受け継がれます。
そのためDNAに刻まれた情報は、後の世代の時点でも読み取ることが可能となっています。
(※SF作品であるアサシンクリードのように、先祖の記憶を追体験するには、読み取ったシグナルをもとに仮想世界を構築する技術が必要になるでしょう。現状のENGRAMではシグナルを時系列順に読み解くしかできませんが、このSF的な設定の基礎となり得ます)
またこれまで細胞から情報を引き出すにはその場で細胞を破壊してRNAやタンパク質を取り出したり、組織をスライスして細胞が生きているうちに画像化する必要がありました。
特に時系列に従った情報を得るには、複数のサンプルや切片を用意して一定時間おきに調べなければなりません。
しかしENGRAMでは生物学的活動が起きた時点で情報がDNAに刻まれるため、サンプルの調査は最後の1度で済みます。
研究者たちはENGRAMの仕組みを使うことで、薬に対するがん細胞や神経細胞の反応を調べるだけでなく、未知の生物学的反応を補足できると述べています。
たとえば調べたい反応を事前に設定することで、さまざまなシグナル(WNT、NF-κB、Tet-On 活性など)の時間依存および濃度依存の記録も作ることができます。
そのためこれらの記録と既知の情報を見比べることで、それぞれの信号が未知の生物学的現象に関わっているかを知ることができます。
CRISPR ゲノム編集が遺伝子操作に革命をもたらしたの同様に、ENGRAMは細胞の機能解明において革命となるでしょう。
もしかしたら数年後にはノーベル賞を受賞しているかもしれません。
次ページではいよいよENGRAMの仕組みについて解説していきます。
ENGRAMの仕組みをわかりやすく解説
ENGRAMは、細胞が受け取ったシグナル情報をDNAに記録する画期的なシステムです。
このシステムの仕組みを理解するには、まずその各役割を知ることが重要です。
ENGRAMの主要な登場人物は、情報の受信役「CRE」、情報の書き込み役「プライムエディティングガイドRNA(pegRNA)」、そして書き込み場所を指示する「DNAタイプライター」です。
例えば、あるホルモンが細胞にシグナルを送ると、そのホルモンに対応するCREが活性化され、遺伝子の発現が促進または抑制されます。
ENGRAMでは、このCREの活性化を利用して、細胞に起きた生物学的イベントを検知します。
次に、プライムエディティングガイドRNA(pegRNA)です。
pegRNAは、CRISPR技術を応用したもので、特定のDNA配列を編集するためのガイドRNAです。
ENGRAMでは、CREが活性化されると、このpegRNAが生成され、情報の書き込み役として特定の塩基対をDNAに挿入します。
この塩基対は、どのシグナルが発生したかを記録するための「シンボル」として機能します。
しかし、同じ場所に複数のホルモン情報を書き込むと、情報が重なってしまいます。
そこで、DNAタイプライターという仕組みが登場します。
DNAタイプライターは、情報を書き込む場所を移動させる役割を果たします。
これにより、異なるホルモン情報が順番にDNAに記録され、時系列的な記録が実現します。
この一連の流れをタイプライターで紙にインクを打ち込む作業に例えるなら、CREとpegRNAがインクを紙に打ち込む作業を行う役割、そしてDNAタイプライターが二重の打ち込みを避けて時系列に沿うように記述するための改行レバーの役割を果たしていると言えるでしょう。
全体の流れを簡単に言うと、
「ホルモン1が発生→情報の受信役CRE1が活性化→情報の書き込み役pegRNA1が対応する塩基対をDNAに挿入→DNAタイプライターが次の書き込み位置を準備→ホルモン2が発生→情報の受信役CRE2が活性化→情報の書き込み役pegRNA2が対応する塩基対をDNAに挿入→DNAタイプライターが次の書き込み位置を準備→……」
という具合になります。
ENGRAMはこのようにして、細胞内のさまざまなシグナル情報を時系列でDNAに記録します。
研究者たちは、ENGRAMの改良を続けることで、将来的には細胞の全歴史を記録することが可能になると期待しています。
アサシンクリードの世界のように、細胞の記憶を追体験するのは現状ではまだ不可能ですが、細胞のフライトレコーダーとして未来の医療や細胞の機能解明に革命をもたらすことになるでしょう。
参考文献
Genome recording makes living cells their own historians
https://www.eurekalert.org/news-releases/1051648
元論文
Symbolic recording of signalling and cis-regulatory element activity to DNA
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07706-4
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部