呼吸パターンは情報の記憶時に重要な役割を果たしているようです。
今回、兵庫医科大学の中村望助教らの研究チームは、マウスの呼吸を実験的に操作し、呼吸パターンと記憶力、海馬の神経細胞の活動の関係性を検討しました。
実験の結果、記憶時に無呼吸状態になったマウスは記憶力が低下し、呼吸の頻度を減少させたマウスは誤った記憶が形成されました。
また、呼吸の頻度を変えずに周期性をランダムにした場合には、記憶力が向上する現象も確認されています。
研究チームは「本研究の結果は、呼吸が記憶にとって重要な役割を持つ可能性を示している」と述べています。
研究の詳細は、2023年7月27日付の科学誌「Nature Communications」に掲載されました。
目次
- 息を吸う瞬間は集中力・注意力に関与する脳活動が低下し、記憶パフォーマンスが悪くなる
- 呼吸パターンは記憶形成を変えるのか
- 記憶時に無呼吸になると記憶力が低下し、呼吸の頻度を減らすと、間違った記憶が形成される
息を吸う瞬間は集中力・注意力に関与する脳活動が低下し、記憶パフォーマンスが悪くなる
呼吸は生命維持に欠かせない活動です。
私たちは日常的には意識せずとも呼吸していますが、深呼吸など意識的に呼吸をコントロールすることもできます。
睡眠時などの無意識の呼吸が脳活動に与える影響に関しては多くの研究が行われてきました。しかし認知課題遂行中などの覚醒下での意識した呼吸リズムやパターンが脳活動をどう変えるかは研究が不足しています。
これまで中村氏らは課題遂行中の意識的な呼吸と脳の状態の関係性を検討してきました。
それらの研究では、記憶課題に取り組んでいるときに、息を吸うタイミング(EI)が重なると、集中力・注意力を司る脳領域の活動が低下し、記憶した情報の阻害を引き起こすことを報告しています。
この結果を受け、息を吸う瞬間が脳の情報処理をリセットさせ、記憶などの処理を阻害する可能性があると考えられていました。
しかしこれまでの実験では、呼吸のパターンを実験的に操作できず、呼吸パターンと脳活動の因果関係を推定することが困難でした。
そこで今回中村氏ら研究チームは、マウスの神経を機械的に操作して、呼吸パターンと記憶形成の関係を調査することにしました。
呼吸パターンは記憶形成を変えるのか
今回の研究では、遺伝子改変した特殊なマウスと光遺伝学という技術を用い、マウスの延髄内の呼吸中枢に光を照射し、呼吸パターンの操作を行いました。
光遺伝学(オプトジェネティクス)とは、光を用いて生体の細胞や神経系の活動を制御する技術。この技術を用いると、光に反応するよう遺伝子改変した生物に対し、光の照射をし神経細胞の活動を操作できます。
実験では、正常なマウスと遺伝子改変した特殊なマウスを対象に記憶課題を行なっています。
記憶課題では、①箱の色と電気ショックの関連性を記憶させるフェーズと②マウスの記憶の正確さを測定するフェーズに分けています。
記憶フェーズ
まず音と同時に電気ショックが流れる白い箱と何も起きない黒い箱の2色の箱にマウスを入れ、箱の色と電気ショックの関連性を記憶させます。
このとき、実験では音と電気ショックが流れる瞬間に、さきほどの光遺伝学を用いてマウスの呼吸パターンを、無呼吸状態、不規則状態、低頻度呼吸などに操作しています。
記憶力測定フェーズ
その後、再びマウスを箱に入れ、白い箱と電気ショックの関連性を記憶しているかどうかを調べました。
もしその関連性を正確に記憶できている場合、白い箱に入った時に電気ショックを予測し、音が鳴った瞬間に身体を硬直させる反応をみせるでしょう。
一方で、正確に記憶できていない場合には、電気ショックが流れないはずの黒い箱の中で身体を硬直させる反応や白い箱の中で電気ショックを予期せず動き回る反応を示すはずです。
さて、呼吸パターンや呼吸頻度によって記憶形成に違いは見られたのでしょうか。
記憶時に無呼吸になると記憶力が低下し、呼吸の頻度を減らすと、間違った記憶が形成される
実験の結果、正常なマウスは、白い箱で電気ショックを経験した後、再び白い箱の中で音が鳴ると、身体を硬直させました。
この結果は、正常なマウスが箱の色と音、電気ショックの関連性を正確に記憶できていたことを意味します。
一方、電気ショックが流れる瞬間に無呼吸状態だったマウスは、箱の色と電気ショックの関連性を記憶できておらず、箱の中で動き回っていました。そして海馬の神経活動においても、その変化が観察されました。
また、呼吸の周期性をランダム(不規則)にしたマウスは、記憶力が向上し、白い箱に入るだけで体を硬直させる過剰な反応を起こしました。
そして呼吸の頻度を減らしたマウスは、電気ショックを経験していない黒い箱の中でも身体の硬直を示し、間違った形で記憶が形成されていました。
これらの結果は、呼吸が記憶を形成する「トリガーの役割」を担っており、無呼吸状態や呼吸頻度の減少により記憶が阻害される、また間違った記憶が形成される可能性を示唆しています。
また、呼吸パターンが不適切であると、記憶や思考などの情報のまとまりを形成しにくく、記憶力の低下につながる可能性があります。
呼吸によるストレス緩和や精神疾患対策などの応用に期待
前回の研究では、息を吸う瞬間に集中力・注意力が途切れ、記憶力が低下することが報告されていました。
そのため、呼吸を上手くコントロールすれば、集中力・注意力を改善し、仕事や勉強などの領域で認知機能を向上させられる可能性が示唆されましたが、前回の研究では呼吸パターンを実験的に操作することが出来なかったため、集中力と注意力の変化が、呼吸パターンとして現れている可能性もありました。
今回の研究では、光遺伝学を用いて、マウスの記憶時の呼吸パターンを操作し、呼吸のパターンによって記憶力が変化するという因果関係を明らかにすることができました。
記憶する瞬間に無呼吸状態になると、海馬の神経活動レベルが変化して記憶力が低下し、呼吸の頻度と周期性を変化させると、記憶が非常に混乱する状況が確認されました。
この結果は、記憶時の無呼吸状態と呼吸頻度の低下が記憶力の阻害につながる可能性を示唆しています。
つまり、重要な情報を記憶すべき場面では、息を吸う、または止めるのではなく、息を吐いた方が良く、また呼吸の頻度を落とすべきではないと言えそうです。
これは新たな呼吸法に基づく記憶術の提案につながるかもしれません。
参考文献
呼吸パターンが記憶力の強化と悪化の両側面を引き起こすことを発見 https://www.hyo-med.ac.jp/corporation/publicity/news-releases/2043/元論文
Hippocampal ensemble dynamics and memory performance are modulated by respiration during encoding https://www.nature.com/articles/s41467-023-40139-7 Respiration-timing-dependent changes in activation of neural substrates during cognitive processes https://academic.oup.com/cercorcomms/article/3/4/tgac038/6696699?login=true