日本の戦国時代において、数多くの有名な戦いが繰り広げられました。
その中でもとくに有名なのは長篠の戦いであり、2023年の大河ドラマ主人公の徳川家康が活躍したことでも知られています。
しかし実際の長篠の戦いは、教科書で書かれていたこととかなり異なっています。
本記事では、長篠の戦いまでに至った経緯と、長篠の戦いの通説と史実の相違について紹介していきます。
この研究については、徳川家康(人物叢書)に詳細が書かれています。
目次
- 一枚上手の武田信玄、押されっぱなしの徳川家康
- 家康のリベンジをかけた長篠の戦い
- 「織田軍の三段撃ち」も「武田軍の騎馬隊」もなかった長篠の戦い
一枚上手の武田信玄、押されっぱなしの徳川家康
徳川家康は今川家が桶狭間の戦いで敗れた直後から独自行動を開始し、1561年に独立を果たします。
当然徳川家と今川家の関係は最悪であり、武田家が今川家との同盟を破棄した後、徳川家は「敵の敵は味方」という理屈で武田家と同盟を結びました。
両者は当初は仲良く今川家の領土に侵攻していましたが、武田家が徳川家が攻める予定の場所まで侵攻するなどといった約束違反をしたことにより、関係は少しずつ悪化していきました。
そのようなこともあって徳川家が遠江、武田家が駿河を一通り制圧し終えた1570年に、両者は絶縁し敵対関係になりました。
なおその前後にて家康は武田家の宿敵である上杉家と誼を通じ、越遠同盟を締結しています。
戦国時代において「敵の敵は味方」というのは同盟を結ぶ際の一番の動機になっていたことが窺えますね。
今川攻めの戦後処理が終わった1572年、武田家は徳川領への侵攻を開始し、徳川軍は遠江・三河国(現在の愛知県東部)で武田軍と対峙することになりました。
家康は信長からの援軍と共に三方ヶ原で武田軍と交戦しましたが、徳川・織田連合軍は惨敗したのです。
家康自身も浜松城に逃げ帰る途中、多くの家臣が死傷する中で命からがら助けられました。
この戦いは三方ヶ原の戦いとして知られています。
その後、武田軍は家康のいる浜松城を素通りし三河国へ進軍しました。
しかし、武田信玄の発病によりこれ以上の進軍は不可能であると判断し、野田城(現在の愛知県新城市)落城後武田軍は甲斐へと引き換えしていったのです。
なお武田信玄は帰路の途中にて命を落としており、生きて甲斐の土地を踏むことはありませんでした。
信玄が自身の死を伏せるように家臣に命令し、信玄は生きていると公表されていました。
しかし家康はそれを怪しみ、信玄の死を確認するために駿河に侵攻し、三河では長篠城を攻めました。
武田軍の抵抗がほとんどなかったため、家康は信玄の死を確信しました。
また、家康は奥平貞能(おくだいらさだよし)の調略を通じて奥三河を奪還し、長篠城(ながしのじょう)(現在の愛知県新城市)に奥平軍を配置して武田軍の再侵攻に備えたのです。
家康のリベンジをかけた長篠の戦い
武田家は信玄の死後しばらくは体制を整えることに終始していました。
しかし1574年、信玄の後継者の武田勝頼(たけだかつより)は家康との攻防を続けながら、東美濃の明智城(あけちじょう)(現在の岐阜県恵那市)や遠江の高天神城(たかてんじんじょう)(現在の静岡県掛川市)を攻略したのです。
その翌年勝頼は、長篠城の攻略に乗り出しました。
武田家は大軍で押し寄せたのに対し、長篠城の守備隊は500人の寡兵だったが、鉄砲や大鉄砲を有しており、谷川に囲まれた地形で猛攻をしのいでいました。
しかし、兵糧蔵が焼失し食糧不足に陥り、落城が迫っていたのです。
そこで城側は鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を密使として派遣し、岡崎城にいる家康に援軍を要請することにしました。
鳥居は夜闇に紛れて武田軍の警戒線を突破し、岡崎城に到着すると、既に信長率いる援軍3万人が長篠への出撃準備を進めている情報を把握しました。
鳥居はそれを聞いて即座に長篠城へと引き換えしますが、その途中で武田軍に捕まってしまいます。
勝頼は鳥居に「城に向かって降伏を促せば、命だけは助けてやる」と取引を持ち掛けましたが、鳥居は城に向かって「信長の援軍がすぐにやってくる」と叫びました。
勝頼はこれに怒り、鳥居を処刑しましたが、その報告により城兵の士気は高まり、援軍まで持ちこたえることが出来たのです。
5月18日、信長軍3万と家康軍8,000が設楽原に到着し、野戦築城を行いました。
一方、武田軍は決戦を選び、長篠城の牽制に部隊を残し、本隊は設楽原(したらがはら)に布陣しました。
そして5月21日早朝、設楽原での戦闘が行われ、織田・徳川軍が武田軍を攻撃しました。
戦闘は約8時間続きましたが、追撃された武田軍は10,000人以上の犠牲を出したのです。
結果として織田・徳川軍は勝利し、合戦は終結しました。
織田・徳川軍には主要な武将の戦死者は見られませんでしたが、武田軍の戦死者は多くの重臣や指揮官が含まれており、被害は大きかったです。
勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、信濃へ逃げていきました。
「織田軍の三段撃ち」も「武田軍の騎馬隊」もなかった長篠の戦い
この長篠の戦いは「織田軍が用意した新兵器の鉄砲が、戦国最強と言われていた武田軍の騎馬隊を打ち負かした」といって教えられており、従来は中世から近世への移り変わりの一つとして捉えられていました。
しかし近年では、長篠の戦いの真実は私たちが想像しているものとは程遠いとの見解が有力です。
長篠の戦いの通説では、織田家が異例の鉄砲3,000丁を使用し、新戦法の三段撃ちを行ったことによって、武田軍の騎馬隊を壊滅させたとされています。
しかし「信長公記」には各武将が持っていた銃兵をかき集めて1,000人ほどの鉄砲隊を作ったとあり、3000丁には遠く及びません。
ただし当時の事情でも1000丁の鉄砲を集めるのは困難であり、1000人の鉄砲隊は十分特筆に値することです。
また、三段撃ちの戦術については実在性が疑われており、明治時代の教科書に記載された後に広まった可能性があります。
ただし、先述のように信長が大量の鉄砲を持ち込んだことは確かであり、戦術の具体的な運用法は不明であるものの、鉄砲隊が部隊単位で集中的に攻撃することで相手軍を消耗させる効果はあったと考えられます。
また織田軍や徳川軍のライバルとして描かれている武田軍の騎馬隊ですが、さまざまな異論が存在しています。
長篠の戦いにおいては、徳川家康が石川数正(いしかわかずまさ)や鳥居本忠(とりいもとただ)に対して武田軍に備えて馬防柵を作るように指示したことから、武田の騎兵が恐れられていたこと自体は真実です。
しかし当時は兵科ごとに部隊を編成していたわけでなく、武将の家来ごとに部隊を編成しており、1人の武将のもとに騎兵や槍兵、弓兵が混在していました。
そのような事情もあるので、武田軍に騎兵だけの騎馬隊があったのかについては懐疑的な声も多いのです。
また当時日本にいた在来種の馬は体が小さく、体高が120㎝ほどと現在のポニーと同じくらいでした。
仮に騎馬隊がいたとしても、大河ドラマのような華々しい活躍を遂げていたかは不明です。
史実との乖離は二つの「信長記」が原因
このように長篠の戦いは史実と通説で内容が乖離していますが、どうしてこのようなことになったのでしょうか?
この理由については、甫庵信長記の存在があります。
甫庵信長記は江戸時代の儒学者の小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた書物ですが、これは小説であり、フィクションが多いです。
現在通説として語られている「織田軍の三段撃ち」などここが元ネタであり、信憑性は著しく低いのです。
一方織田信長の研究でよく用いられているのは信長公記であり、こちらは信長の側近を長らく務めていた太田牛一(おおたぎゅういち)が執筆しています。
こちらは年月についてきちんと記されていることから、一次資料に準じた扱いを受けており、先述した甫庵信長記もこの信長公記をもとに作られています。
どちらも信長記として表現されることもあり、かつては混同されることもありましたが、近年では信長公記の記述をもとに検証が行われており、通説が次々と覆されています。
参考文献
徳川家康 (人物叢書) | 藤井 讓治 https://www.amazon.co.jp/dp/4642052933