TEXT:川島礼二郎(KAWASHIMA Reijiro)
マセラティの源流を辿ると、それはユニークなレーシングDNAに辿り着く。最初はマセラティ兄弟、次にそのドライバーの大胆さから、それはレーシングトラックで生まれた。トライデントの勝利がイタリアの卓越性の旗手となったと言える。世界中の公道やサーキットで勝利を重ねることで、マセラティは伝統と歴史を積み重ねて来た。
レースは常にマセラティの生息地であった。新しい時代となった今でも、この輝かしいブランドは、そのルーツを大切にしつつ、未来を築いている。新しい「MC20」スーパーカーは、マセラティがレースの世界に戻ったことを示している。
「Tipo 300S」とは、1955年に「250S」シングルシーターの進化形として開発され、1959年まで国際レースでマセラティのシンボルとして君臨し続けたモデルである。デビュー前年となる1954年には、F1で使用した「250F」レーサー搭載ユニットから派生した230 hp 2.5リッターエンジンを搭載した「250S」プロトタイプを開発していたが、その結果を受けて技術スタッフは、排気量と出力を増やす作業を開始した。その結果生み出されたのが「Tipo 300S」の直列6気筒3.0リッターエンジンである。ピストン速度が高いにもかかわらず圧縮比が低く、使用されるエンジン回転数が低いため、機械的なストレスが低減されていた。
エンジンの基本構造は、2つのオーバーヘッドカムシャフトとツインイグニッションを含めて、従来の直列6気筒2.5リッターエンジンと同じ。グランプリで用いられた機構がそのままスポーツカーに移行され、将来的には同じ機械が標準生産車にも採用された。結果だけでなく、エンジニアリングの観点から見ても、「300S」は真の傑作であった。高径バルブシートとツイン点火用の2つのスパークプラグのくぼみが、エンジンの半球型燃焼室に明確に見てとれる。
車体に目を移しても、フロントサスペンションはダブルウィッシュボーンと同軸伸縮式ショックアブソーバー付きのヘリカルスプリングで構成されていた。ブレーキドラムは真の創意工夫によるもの。軽合金鋳造には放熱のために放射状のフィンと穴開け加工が施されていた。シャーシ骨格は楕円形と円形のチューブによるトレリス構造を採用。重量増と高出力化に起因する大きなストレスに対応できるように変更されていた。
ボディワークとスポーツカーラインを備えたエクステリアは、堅実でありながら魅力的なプロポーションであった。大きなフロントエアスクープはアルミニウムで囲まれた伝統的なトライデントを搭載し、ドライバーは小さなフロントガラスで保護されていた。エンジンルーム内の空気の停滞を防ぐため、側面にフィン付きベントも装備。そして2本のエグゾーストパイプが左側下部を通り、それは後輪の手前まで伸びていた。テールはやや嵩張っているが、これは150リットルの燃料タンク、20 kgのサイドオイルリザーバー、スペアタイヤを隠していたためである。1950年代半ばに空気力学の新しい理論が開発されたため、「Tipo 300S」のボディワークはスタイリングのアップグレードを受けている。
マセラティ「Tipo 300S」成功の軌跡
1955年のデビューイベントで「Tipo 300S」は高い競争力を示し、その結果レースチームやドライバーから多数の注文を受け、速やかに成功に向けた軌道に乗ることに成功した。さらに、競争力を高めるために燃料噴射などの実験的改良を導入したことで、2シーズンに渡ってイタリア国内のみならず国際レースで大成功を収め、マセラティのブランド史上で最も成功した車両となった。そして1955年、ファン・マヌエル・ファンジオが操る「Tipo 300S」はベネズエラGPで勝利を遂げた。エンジンの信頼性とシャーシの完璧な応答が「Tipo 300S」が成功を収めることを可能にした要因であった。
続く1956年には、「Tipo 300S」を操るスターリング・モスとカルロス・メンディテガイがブエノスアイレス1,000 kmで優勝。またピエロ・タルッフィはジロ・ディ・シシリア(クラス1位最大3,000 cc)とタルガ・フローリオ(クラス1位最大2,000 cc)で勝利を遂げた。ニュルブルクリンク1,000 kmでも、スターリング・モス、ジャン・ベーラ、ピエロ・タルッフィ、ハリー・シェルが成功を収めている。
1957年には、より強力な「450S」が導入されたが、「Tipo 300S」は1959年まで生産が継続された。「Tipo 300S」の総生産台数は27台である。