TEXT:安藤 眞(ANDO Makoto)

 僕が若手エンジニアだった20世紀末、新型車の開発に着手してから量産が立ち上がるまでには、一般に4〜5年の期間が必要だった。ところが最近では、2年程度で開発を終えてしまう例が出てきている。その大きな要因となっているのが、CAE(Computer Aided Design)である。コンピューターシミュレーションによって、実機を作らなくても構造的に弱い部分が発見できるようになったため、いちばん時間のかかる耐久走行試験を大幅に短縮しても信頼性が確保できるようになった効果が大きい。




 僕が設計業務に従事していたころは、ちょうどCAEの導入が始まったばかりの時期だった(当時は有限要素法=Finite Element Method=FEM と呼んでいた)。内容的にも非常にプリミティブで、平面をつなげて疑似3次元化したモデルに自分たちでメッシュを切っていたから、モデリングするだけでけっこうな時間がかかった。もちろん、実機製作に先行した解析にはとても使うことはできず、むしろ実際に起こった事例をFEMで再現し、設計に使えるだけの信頼性を確立するという段階にあった。




 ある時、僕が担当していた油空圧サスペンションのブラケットが耐久走行で壊れたため、社内にできたばかりの解析部門に解析を依頼したのだが、数日経ってから担当者が嬉しそうな顔をしてやってきて、「解析の結果、壊れませんでした!」と報告してくれた。




 次の瞬間、「アホかお前はっ!」と僕は叫んでしまった。




 現実に部品が壊れているのだから、解析で壊れないなら設定条件が間違っている。だいいちユーザーから「ここが壊れた」とクレームが来たとき「解析で壊れないから大丈夫です」と言って納得すると思うか? 解析で壊れなかったのなら、もっと困った顔をしてやってこい!——と説教を垂れた後、やり直しを命じた。しかしその後、油空圧サスのプロジェクト自体がドロップしたため、うやむやなまま終わってしまった。

(FIGURE:DAIMLER)

 なぜそんなことを思い出したのかというと、新型コロナウィルスの感染拡大防止対策で、CAEが不適切な形で理解されている例をいくつか見たからだ。




 代表的なのが、ジョギングするランナーから排出される飛沫の挙動をCFDで解析したもの。これによると、飛沫は10m後方まで飛ぶため、感染防止にはそれ以上の距離を開けろということだ。このシミュレーションはYoutubeにもアップされたため、さまざまなメディアで取り上げられるようになった。


 しかし新型コロナウィルスは、感染者の咳やくしゃみ、会話などによる飛沫に乗って体外に排出されても、空気感染が起こるというエビデンスはない。ランナーの後方はそんなにリスクが高いのか? この結果に疑問を持った僕は、シミュレーションの原文(※)を当たってみることにした。すると、やはり前提条件は非現実的なものだった。




 まず、ランナーの走行速度が4m/s。時速に直すと14.4km/hだ。このスピードでマラソンを走ると、タイムは2時間56分となる。すなわち市民ランナーならば、トップレベルの走力がなければ出せないスピードだ。


 つぎに、飛沫が排出される条件。これは「適度に深い呼吸をしたとき」とされている。飛沫の粒径は「40〜200µmで、平均80µm」となっており、一般に「2mほどで乾燥して感染性を失う」とされているエアロゾル粒径(100 µm以下)とほぼ一致している。すなわち実際の環境中ならば、10m飛ぶ以前に乾燥して失活してしまう可能性が高いのだ。しかし、そこはまったく考慮されていない。




 そもそもこのシミュレーションは、無風状態下における飛沫粒子の空気力学的挙動を解析したものにすぎず、医学的な感染リスクとのすり合わせも行われていない。論文は査読もされていないし、もちろん追試も行われていない。


 にもかかわらず、見栄えの良いグラフィックスがあるだけで、確定された感染リスクであるかのようにすり替わってしまっている。




 もうひとつは、「家庭でエアコンを使用する季節になったら、窓を締め切ったままにせず頻繁に換気をしましょう」と言うもの。これもCFD解析によって、感染者から排出された飛沫がエアコンによって室内に拡散されるという結果に基づいたものだ。




 しかし、ちょっと待って欲しい。家庭で頻繁に換気をしなければ感染リスクが高まるということは、すでに感染している人が家族にいる、ということ。となれば、テーブルの上や家庭用品、ドアの取っ手など、よりリスクの高い接触感染の可能性のある場所が汚染されているわけで、そんな家庭に必要なのは、換気ではなく、感染者の隔離だ。


 不特定多数が一時的に集まるイベントやパーティ会場、満員のバスや電車などならば、換気の効果はあるだろう。しかし、それをそのまま家庭に当てはめるのは、無意味としか思えない(冷気が逃げるので電力の無駄だ)。にもかかわらず、これがテレビやラジオで推奨されている。




 新型コロナウィルスに関しては、依然として解明されていないことが多いため、「軽視していい」というつもりは毛頭ない。しかし、シミュレーションは、あくまでシミュレーション。前提条件や環境設定が間違っていたら、間違った答えしか出てこない。コンピューターは神ではないのだ。




 だからCAEといえども、結果を鵜呑みにするのではなく、原理原則に照らして考え、少しでも疑問を感じたら、前提条件や設定環境を調べてみることをお勧めする。そうした「何か変だぞ?」という肌感覚を磨くことが、世にはびこるまことしやかな情報に惑わされないコツであり、エンジニアにとっても重要なことなのだ。

※:http://www.urbanphysics.net/Social%20Distancing%20v20_White_Paper.pdf
情報提供元: MotorFan
記事名:「 新型コロナウィルスとCAE——安藤眞の『テクノロジーのすべて』第54弾