(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)
「わぁ、凄い。あのクルマは何て言うんだ」
今で言う西麻布、当時の霞町の交差点で、高樹町の方から降りて来て、グイグイと加速して六本木の方に坂を登って行ったクルマに、水野忠夫君はほとんど絶叫しました。
昭和25年の夏休みの少し前のことです。
「48年式からフォードは、それまでの丸っこいボディではなく、あの素晴らしい形に変わったんだが、確か、今、六本木の方へ行ったのにはフロントガラスにセンターピラーがなかったように見えたから、あれは49年式かもしれない」
と、答えたのは、右手にラグビーのシューズを提げていた13歳の僕でした。
「何年式にしても、自動車って決してあれ以上は、どうしたって美しくはならないよね」
と、感動を隠そうとはせずに、少年らしく叫んだのは橋本龍太郎君で、僕たち3人はとっても仲の良い、1年1組の同級生だったのです。
強大なアメリカを相手に、何の科学的な見通しもなく、はじめてしまった太平洋戦争は、当然のことですが日本のこっぴどい負けで終わって、東京はアメリカ空軍の焼夷弾で焼野原になってしまいました。
日本が連合軍に降伏したのは昭和20年の8月15日のことでしたから、僕たち3人がフォードの新車に息を呑んだのは、それから僅か5年しか経っていません。
戦争に負けた日本は、今の豊かな日本に生まれ育った若い方たちの想像を、遠く超えていました。
衣食住の全てが致命的に不足していたのです。
僕が、右手に提げていたラグビーのシューズは、叔父が学生時代に履いていたお古でした。
ほんのひと握りの政商や成金を除いて、ほとんどの日本人が、信じられないような惨めな暮らしをしていたのです。
中学1年の僕たち3人も、極く普通の家庭で育ったので、贅沢なんてとてもできません。
アメリカ映画の巨きな七面鳥やローストビーフの固まりを切るシーンでは、薩摩芋で飢えを凌いでいた僕たちですから、映画館の中で、揃って溜息をつきました。
しかし、これは僕たちのひと世代、上の日本人の英知と努力の結果なのですが、それから1年毎に、日本は着実にましになって行ったのです。
昭和30年になると、お金さえ払えば何でも食べられるようになりました。
橋本龍太郎君が、あれは究極の美しさで、自動車はもうこれ以上決して美しくはならないと言ったのに、49年式のフォードはすぐ古ぼけて見えるようになったのです。
それから10年も経たないうちに、アメリカ車にはフォードもシボレーも、それにプリマスも、テールフィンが付いて、驚くほど立派で素敵になりました。
人間の凄さと素晴らしさは、自動車の性能と外観デザインの進歩を見ると、本当によく分かります。
僕たちもクルマと一緒で、いつまでも中学1年生ではありません。
昭和31年に水野忠夫君は早稲田大学、橋本龍太郎君は慶応義塾大学に進みました。
そして、なんとしたことか僕だけが、まともな道から暗黒街に入り込んでしまい、長い年月を過ごしてしまったのです。
それでも僕はやっとのことで、昭和56年には足を洗って、なんとか長く過した暗黒街から脱出しました。
さて、何をして暮らしを立てようかと思った僕は、とりあえずロサンジェルスに行って、これからどうするかを考えたのです。
旧友のタック山田が、サンタモニカの家に僕を泊めてくれました。
その家の巨きなガレージには、亭主のタック、女房のジェニー、それにお祖母様のケイコ山田のクルマと、3台もアメリカ車がいれてあって、僕は懐かしの49年式フォードに再会したのです。
塗装こそいくらか全体に艶を喪っていましたが、みたところとてもいい状態で、モールも光っていたし窓枠にも錆なんか出ていませんでした。
「おーッ。49年式だね」
僕が叫んだらタックは苦笑して、
「ミーがまだ小学校に行っていた頃に買って、30年も……。いくら運転が楽だから、オートマチックの新しいのに替えろと言っても、グランマは、これがいいと言って聞かないのさ」
と言ったのです。
しかし、よく手が入れてあると、僕が感心したら、タックは首をちょっとすくめて、
「日本のお年寄りが、あの小さな松……。なんと言ったかな。そう、盆栽をやるみたいに、うちのグランマは暇があると、このフォードをいじっているのよ」
孫に手伝わせて、少しへたりがきたショックアブソーバーも、部品を買ってきて取り替えたりしないで、自分で直してしまうのだと言いました。
僕の来る2ヵ月前には、減ったタイヤを新品と取替えたのだが、4輪ともに全部交換して、古いのをジャンクヤードに捨てに行くのは大仕事だったと、頭を左右に振りながら言ったのです。
タックのお母様のケイコは、昭和56年のその時で76歳でした。
「グランマはこの大事になさっているクラシックカーを、僕に運転させて下さるかな」
僕が呟いたら、
「ノー・プロブレム。ミーも時々、運転しているよ」
タックはニコリとして、言ってくれたのです。
家に入っていったタックが、キーを持ってガレージに戻って来ると、後ろからついて出てきたケイコお婆様は、
「ナオ、ハーフクラッチを、あまりエット使ってはいけんよ。パーツが、ハァ、なかなか手に入らんのじゃけぇ……」
広島弁でおっしゃいました。
エットというのは、沢山という意味です。
亡くなったお祖父様が自動車の修理工だったので、お祖母様もこの年式のクルマまでは、自分で何でもやってしまうというのですから、お歳にしては驚くべきことでした。
サンタモニカ・フリーウェイを、60マイルでクルージングした49年式のフォードは、見事なもので、ガタともピシともいいません。
流れるようにスムーズに走ったのです。
日本に戻った僕は、大幸運に恵まれて小説家になりました。
今年でフォード49年式に痺れた時から、実に半世紀に近い48年の歳月が過ぎました。
現代ロシア文学を究めた水野忠夫君は、早稲田大学文学部の文学部長の要職にあって、先日、新聞社の学芸部の記者が僕に語ったところでは、総長への道をまっしぐら……なのだそうです。
橋本龍太郎は26歳で国会議員になって、今では総理大臣をしています。
ケイコ山田は昭和63年の暮に天寿をまっとうされたそうですが、タックは遺品のフォードを、まだ大事にしています。
先日、日本に来たタックは、ハリウッドが撮影に借りに着て、なんと100ドルもくれたと笑って言いました。
大事に手入れさえしてあげれば、アメリカのクルマはいつまでも機嫌よく走ってくれるのですが、これは人間も同じことなのに違いありません。
来月は人間ドックに行こうと、僕は思ったのです。
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