(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)
昭和30年代の東京で、ドアが上に跳ね揚るベンツ300SLガルウイングに乗っていたのは、僕の知る限り、プロレスラーの力道山と石原裕次郎さん、それに歌手の三橋美智也の3人だけでした。
こうして書いていて思い当たったのですが、あの素敵なガルウイングに乗っていた3人はいずれも鬼籍に入ってしまったのですから、本当に過ぎて行く時は嫌になるほど早いのです。
その頃の東京には、まだこのクルマをブンブン走らせるほどの道路はありません。
市街地を低回転でノソノソ走るのには、この300SLガルウイングは全く適していませんでした。
あくまでドイツのアウトバーンを、颯爽と優雅に走るための高速スポーツ・ツーリングカーだったのです。
クルマが大好きで詳しかった力道山と、石原裕次郎さんは、ダイナモのプーリーを低回転でも充電できるように、インチの大きいのと交換していたのでよかったのですが、お金は沢山もっていても、クルマのことは何も知らなかった三橋美智也は悲惨でした。
身長が150㎝ほどしかなかった三橋美智也は、ドライバーズシートに2枚も厚い座布団を敷くと、やっとハンドルの間から前を覗いて、自分の家のガレージから走り出るのですが、100㎞も走ればバッテリーがあがって止まってしまいます。
誰もがウットリとして見詰めるガルウイングで、エンコしてしまうのは、普通のクルマでやるよりも、ずっと惨めだったのに違いありません。
「三橋美智也も僕と同じのを手に入れたんだけど、表に出ればエンコして恥をかくんで、仕方がないから3日に1回、お手伝いとふたりでワックスを掛けて、磨くだけなんだってさ」
と、石原裕次郎さんはビールを呑みながら、人柄のいい方でしたから気の毒そうに言いました。
プロレスラーの力道山は、当時は日本一の人気者でしたが、チンピラの僕に、
「身体のない者は、何でもスポーツカーは似合わないんだ。胸を張ってグイとステアリングを握らなければサマにならない」
だからトライアンフのTR3は、ドライバーの鍛えた上半身を見せるために、ドアがカットしてあるのだと、僕に言ったのです。
チンピラの僕は三橋美智也とは、当時は面識がありませんでしたが、慶応高校で2年先輩の石原裕次郎さんや、それになぜか気に入ってくれて、とても優しくしてくれた力道山とはいいつきあいをしていただいていました。
力道山は、プロレスリングは頭でやるものだ……と言って、
「親分の安藤昇さんに俺が話してやるから、チンピラをやめてプロレスラーになれ」
とまで言ってくれたものです。
力道山は渋谷にシルバーグレーのガルウイングに乗って来ると、
「ナオちゃん、済まないけど、暇だったらほんの30分だから俺のクルマを見てておくれ」
なんて、必ず僕に言いました。
チンピラは遊び人ですから、いつでも暇で忙しくなんかありません。
駐車しておくと周囲を見物が取り巻くような、ド素晴らしいクルマでしたから誰か見張っていなければ、いたずらされてしまうことも十分、考えられました。
僕は力道山が戻って来るまで、シルバーグレーの凄い300SLのそばに立って、煙草を吸って目を光らしていたのです。
その頃、僕が乗っていたのは、まだバッテリーが6ボルトだったルノーの4CVでしたが、
「代貸、親分と呼ばれるようになるまでは、あと20年はかかるだろうが、せめて兄貴と呼ばれるようになったら、この300SLガルウイングは無理でも、程度のいい190SLの中古には乗りたいな」
と、真剣に思いました。
フェラーリよりアストンマーチンより、その頃の僕はメルセデスに魅せられていたのです。
300SLのガルウイングは、夢の最高峰でこれ以上のクルマは僕の頭の中にはありませんでした。
暫くするとクルマのところに戻って来た力道山は、
「やあ、ナオちゃん、済まなかったね」
陽気な声でねぎらうと、必ず1000円札を3枚から5枚、シャツの胸のポケットかズボンの尻のポケットに、スマートに捻じ込んでくれたのです。
出世前のチンピラに、ペコペコ頭を下げさせるなんて垢抜けないことは、この苦労人のプロレスラーはしませんでした。
人によって評価が分れる力道山ですが、僕にはとてもナイスで、心遣いをしてくれた人なのです。
チンピラの僕に小遣いをやろうとして、わざわざガルウイングの見張りを頼んだのに違いありません。
何もしないで小遣いを渡せば、僕が憤然として突き返すことを、力道山が知っていてくれたのが、嬉しくて堪らないのです。
ある時、銀座のニチドーシローというクラブで、博奕に勝った僕がパーッとやっていたら、奥のボックスで呑んでいた力道山からI Wハーパーが、1本、届きました。
礼を言いに行った僕は、
「甘えついでに、1度あの300SLガルウイングを運転させてくれませんか……」
と、図々しいことを言ったのです。
僕が酔っ払っていないことを確かめると、
「もし酔っ払ってぶつけても、プロレスをやらせて弁償させるからいいんだけど……」
なんて笑いながら、鍵を抛ってくれたのでした。
「あと1時間ほどで帰るから、横浜までは行くなよ」
と、力道山が叫んだのに、
「今の時間でこのクルマなら、伊勢崎町に2往復だって軽くやってみせまさぁ」
なんて若い僕は言ったのです。
300SLガルウイングのドアは、メルセデス独特の快い音を発って締り、セルモーターがグルグルと力強く回ると、ドドドドドとエンジンが回りました。
なんといういい感じのクラッチだ……と、フロアシフトの短いレバーを、ローに入れた僕は思ったのです。
夜の銀座を往く人は、立ち止まって僕とシルバーグレーのガルウイングを見ました。
そう思ったのは僕だけで、今、思うと皆、夜目にも鮮やかなスーパーカーを見ていたのに違いありません。
昭和44年に、僕はかなり程度のいい190SLを買いました。
チンピラだった僕もその頃になると、随分と懐具合もよくなっていたのですが、メルセデス300SLのガルウイングだけは、もともと日本に輸入された台数が極端に少なかったので、探してもなかなか手に入らなかったのです。
そして前刑の5年の懲役をつとめて昭和54年に出所すると、56年には足を洗って僕は堅気になりました。
試行錯誤を繰り返した挙げ句に、やっとの想いで小説家になりおおせた頃、石原裕次郎さんがお亡くなりになったのです。
御焼香に伺った青山斎場には、一段高いところに石原裕次郎さんの300SLガルウイングが、飾ってありました。
「あ、石原裕次郎さんは、あのクルマで天国まで走っていらっしゃったのかな……」
ウットリと仰ぎ見た僕は、会葬者の列の中でそんなことを想ったのです。
(月刊GENROQ 1997年8月号掲載『クルマという名の恋人たち』再録)
安部譲二先生の『華麗なる自動車泥棒』は、この第20回で一旦WEB連載終了です。全56話の素敵なお話しは1冊にまとめました。まだまだイカしたクルマと波乱万丈のストーリーは終わりません。ぜひご一読下さい。安部先生、モーターファンでの公開、文章校正など、ご快諾ありがとうございました!
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