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〈有馬山 猪名の篠原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする〉
〈やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな〉
58番の大弐三位(だいにのさんみ)の歌と、59番の赤染衛門の歌です。
大弐三位は、57番の作者紫式部の娘ですから、母・娘と連続しています。しかし、歌の内容はまったく別で、58番の歌は、「後拾遺集」の恋二が出典で、詞書に「かれがれなる男の、おぼつかなく、など言ひたるによめる」とあります。しばらく訪れも途絶えていた男が、あなたがどうしているか気になるのだが、など言ってきたので詠んだということです。「有馬山猪名」とは、兵庫県の有馬温泉の付近で、「万葉集」の和歌から知られる歌枕です。猪名の篠原に風が吹いて、そよそよ音を立てている情景が思い浮かべられますが、それは序詞という技法で、下句の「そよ」を引き出すための前振りです。「そよ」は「それです」の意で、「それ」とは、男の言う「おぼつかなく」を指し、「私もそう思う」と同感を表しています。
和歌での主張内容は下句にあって、「さあ、そうですよ。私だって、あなたのことが気がかりですが、私はあなたを忘れるもんですか、忘れませんよ。」と答えています。身勝手なことを棚に上げて問うて来る男に強く反発していると読めますが、男から作者に向けた「おぼつかなく」を、そのまま作者から男への思いとし、その上で、あなたはどうあろうと、私はあなたを忘れるわけがないではありませんかと、むしろ男への強い恋心を答えています。
次の赤染衛門の歌も、大弐三位と同じく、「後拾遺集」の恋二が出典ですが、恋歌の代作として詠んだもので、こうしたことは、この時代に珍しいことではありません。後に摂政関白になり、54番作者の夫となった藤原道隆が若い日に、作者の姉妹の一人と恋仲になって、ある夜期待させておいて訪れなかったので、翌朝になって作者が姉妹の気持ちを代弁して詠み道隆に送った歌です。ぐずぐずしないで、さっさと寝てしまえば良かったのに、夜更けて西空に傾き沈む時までの月を見てしまいましたよ、という内容です。訪れを期待して長々と待っていた私が馬鹿でしたとは、薄情な男を責め恨んでもいるのですが、待ち続けたのは女の意志ですから、女の男への強い恋心の吐露でもあるわけです。
作者の赤染衛門は、夫や子女をことのほか大切にした家庭人とされますが、代作とも思えない見事な詠みぶりです。58番・59番の二首は、当てにならない男を責める思いがありつつ、そうせざるを得ない女の恋心を詠んでいます。
〈大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立〉
〈いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな〉
〈夜こめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ〉
上から順に、60番、61番、62番の各歌です。これらは、作者が宮仕え生活の中で詠んだもので、詠まれた事情を含めた和歌説話としても知られるものです。また、三首とも歌枕を含んでいることも共通します。
最初の60番の作者は、小式部内侍(こしきぶのないし)で、56番作者の和泉式部の娘です。この歌は、勅撰集で「後拾遺集」に継ぐ、「金葉集」の雑三が出典です。母親の和泉式部が夫の任地だった丹後(京都府北部)に下っている間に、都で歌合が予定され、小式部内侍も歌人とされたことから、著名歌人藤原公任の息子で64番の作者でもある定頼が、同じく有名歌人の母親から助け船はあったのかとからかってきたのに、小式部内侍が即座に応じて詠んだ歌です。
母のいる丹後までの大江山(京都市西京区)から生野(福知山市)を行く道は遠いので、まだ丹後の有名な天橋立(宮津市)の地も踏まず、母からの文 (手紙)も見ていません、という内容です。地名「生野」に「行く」、「踏み」に「文」という掛詞が巧みで、からかいを見事に封じた歌です。この歌は、宮仕えの場でありそうな緊張と、即座に切り返す機転の面白さが注目されて、院政期に作られた「俊頼髄脳」「袋草紙」など和歌説話を多く含む作品にも載せられています。
次の61番は伊勢大輔(いせのたいふ)の作です。「金葉集」の次の「詞花集」の春が出典です。一条天皇の宮中に、当時京では珍しかった八重桜が奈良から贈られたことにちなんで詠まれた歌です。昔の都だった奈良の八重桜が、今日は今の宮中で美しく輝いているよ、との内容です。「いにしへ」に「今日」を対し、「八重」に宮中を指す「九重」と続けて桜の花の豪華さを強調して、一条天皇の御代のめでたさをいっそう増したことが評価されました。「伊勢大輔集」では、当初紫式部が詠むところを新参の伊勢大輔に役を譲ったが、それを見事に詠んで賞賛されたとあります。「袋草紙」にも載せられていて、万人が感嘆して宮中が鼓動したとあり、伊勢大輔の代表作ともされています。
最後の62番は清少納言の作です。「後拾遺集」の雑二が出典です。しかし、その元は「枕草子」だろうと思われます。若干知識も要する内容なので、以下に和歌に至る記述を辿り、説明することとします。
一条天皇の側近役だった蔵人頭(くろうどのとう)の藤原行成と清少納言は、ある夜親しく話していたのですが、行成は天皇が物忌(ものい)みで籠もることに従うため中座します。翌朝になって、彼から早朝の鶏の声に促されて失礼しましたと侘びを伝えてきます。清少納言は、まだ夜のうちに出て行ったので、「夜深けの鳥は函谷関(かんこくかん)のことですか」と、行成の言う「鶏の声」は偽だと責めます。これは、中国戦国時代斉の国の孟嘗君(もうしょうくん)の故事に基づきます。孟嘗君は秦の国で捕らえられますが、鶏の鳴き真似が得意な部下に函谷関で鳴かせ、夜明けと勘違いをさせて門を開けさせ逃げたという話です。清少納言の言葉に、行成は「函谷関」と聞いて、「いえ、関は関でも、あなたに逢う逢坂の関です。また逢いましょう」と、はぐらかそうとし、それに清少納言が応えたのが、「夜をこめて」の歌です。函谷関なら、夜のうちから鶏の鳴き真似は番人を騙せても、逢坂の関は駄目です。あなたと逢う気はありません、という拒絶が歌の内容です。
しかし、確かに言葉では強く行成に反発していますが、むしろこの和歌は親しい間柄での軽い冗談として理解すべきです。そこに文化的世界に遊ぶ雅びが示されていると見るべきです。漢籍の知識を共通の教養としながら言葉を交わしつつ和歌にも至るという、この二人のやり取りは、まさに宮廷貴族社会の雅びの典型とも言える例です。それは和歌一首の内容だけでなく、それを詠むに至る状況・雰囲気すべてで味わうべきことです。
62番の清少納言が、53番の道綱母から、55番の藤原公任を除いて、9首の女性歌人の和歌が集中している末尾です。女性達のなかでも、一条天皇とその近い時代での頂点と言うべき紫式部・和泉式部・清少納言・赤染衛門と、その次世代の代表歌人が登場し、まさに平安文学の特色とされる女性の活躍を各人一首づつ選び、いくつかのグループに分けて、この位置に集約させていることがわかります。
「百人一首」再末尾の順徳院の和歌に、「なほあまりある昔なりけり」と詠まれた王朝文化の粋の内の粋として、百首のちょうど半ば辺りに、これらの和歌が置かれたのではないかとすら推測されます。しかも、時代順配列という原則から外れて、世代の後れる小式部内侍・伊勢大輔を前にして清少納言の歌を最後に位置させたことも、62番の世界がそうした中での特に代表するものとされたのかもしれません。
《参照文献》
百人一首研究必携 吉海直人 編(桜楓社)
枕草子・俊頼髄脳・袋草紙 新編日本古典文学全集(小学館)