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〈このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向け山 紅葉の錦 神のまにまに〉
歌の内容は、今回の旅は道の安全をお祈りする幣も用意できず、お供えする国境の山には、錦なす美しい山の紅葉を神様のお望みのままに捧げます、というものです。
出典は、「古今集」の「羈旅(きりょ、旅の歌)」の部で、「朱雀院の奈良におはしましける時に、手向け山にて詠める」とあります。「たび」は旅と度(たび)の掛詞です。幣は、神に捧げるもので、楮(こうぞ)の樹皮を細かに裂いた木綿(ゆふ)や麻などとも、五色の絹・麻・紙を細かく切ったものとも言いますが、この歌には色彩鮮やかな後者が当たるようです。
つまり、幣の代用として紅葉を神に捧げますと言っているのでしょう。「手向け山」は、行く人を守るとされる道祖神に幣を捧げる山で、国境にあり、「たむけ」が「とうげ(峠)」という語に変化したとされます。ここでは京都(山城国)から奈良(大和国)への境の山が「手向け山」に当たります。
詞書の「朱雀院」とは宇多上皇のことです。昌泰元(989)年の7月に、宇多天皇は醍醐天皇に譲位して上皇になり、その10月20日から月末にかけて、腹心の貴族を引き連れて奈良に向けての旅に出ました。「扶桑略記」という歴史記録に拠ると、奈良では道真山荘での一泊もあり、25日に吉野の名勝宮滝に至り、なお紅葉の名所の立田山に進みます。その後摂津(大阪)の住吉社に詣でて帰京します。それぞれの名所で一行は和歌を献じますが、「古今集」に継ぐ「後撰集」には、この時の宇多上皇や素性法師などの和歌も載せられています。旅中の道真の漢詩には、「…白雲紅樹は旅人の家 …」、あるいは「満山の紅葉、心機を破る(感動する)」などともあり、旅中の各所で紅葉の最も美しい時季だったとわかります。
道真の先祖は元は土師氏と言い、伝説では4世紀ごろ野見宿禰(のみのすくね)という人物が出て、凶事での殉死の制を埴輪に替え、その後居住地の名をとって菅原になったとされます。道真の祖父・清公(きよきみ)の代から官人として学問に優れ、清公、父・是善(これよし)ともに文章博士になっていて、法律書・歴史書や漢詩集などの編纂をしています。
道真は承和十二(845)年の生で、11歳で初めて詠んだ漢詩が残っています。学問に励み、18歳で文章生(もんじょうしょう)の試験に合格して、貴族達の様々な文書についての起草を依頼されるようになります。官人としては、27歳の貞観十三(871)年に天皇の文書を起草する少内記に就いて、いっそう能力を発揮し、ついには33歳で文章博士に上り詰めます。しかし、42歳の時、出る杭は打たれるように任を解かれて讃岐守(さぬきのかみ 香川県の知事に相当)になります。しかし、この不遇時代も、宇多天皇が新設した関白の職に就いた藤原基経の、職務への不安を道真が意を尽くした文書で取り除いた「阿衡の紛議」事件によって、後の華々しい処遇を導きます。4年の任期を経て帰京してからは、宇多天皇に信任を受け重用されて、天皇側近の蔵人頭(くろうどのとう)を皮切りに官位を上げ、「百人一首」の和歌を詠んだ翌年の昌泰二(899)年、55歳で右大臣となります。しかし、その2年後57歳の時に生涯最後の挫折、大宰権帥(だざいのごんのそち)へと左遷されます。九州全体を統括する大宰府の仮の長官ですが、歴代都の高官の左遷先にされた官職でした。知らせを受けて内裏に駆けつけた宇多上皇も中に入ることを拒否されたまま決定されました。原因は上皇による道真重用への批判、左大臣・藤原時平との対立、道真の娘が醍醐天皇弟の妻なので天皇廃立を企てたなどの説がありますが、大局的には藤原氏による他氏排斥の一環でした。
三番目の勅撰集「拾遺集」の「雑春」には、この時の道真の歌として、
〈こち吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな〉
があります。詞書には「ながされ侍りける時、家の梅の花を見侍りて」とあって、流罪で都の我が家を去る時の歌とあります。私が下って行く太宰府は西国だから、都から東風(こち)が吹き寄せる時には、匂いを吹きよこせ、梅の花よ、家の主人が不在だからと春の挨拶を忘れるなと、梅の香への愛着に託して都から離れる辛さを詠んでいます。この歌は、「このたびは…」の歌に引けを取らない、道真の生涯を通しての、もう一つの代表歌です。
太宰府左遷2年後の延喜三(903)年、59歳の道真は失意のうちに生涯を閉じます。政治家としては、「阿衡の紛議」事件の処理と、遣唐使の廃止決定が道真の最大の功績とされます。他に詩文集では右大臣時代に奉られた「菅家文草」と太宰府時代の「菅家後集」、別に編纂に大きく関わった「三代実録」と独自に編んだ「類聚国史」の歴史書があり、また、和歌に漢詩を添えた「新撰万葉集」は道真が編んだともされています。道真は現在も学問の神様と言われますが、政治家であり、文学者で歴史家でもある傑出した人物でした。
道真の悲劇的な死後、京では貴族・皇族の尋常とは思えない死が続きます。まず、左大臣・藤原時平が39歳で死に、皇太子が続けて2名没し、延長八(930)年には醍醐天皇も病になって退位の直後崩御します。これらは道真の怨霊によるとされ、その霊を鎮めるために、太宰府と京の北野の天満宮に道真の霊が祀られ、正一位太政大臣が追贈されました。
道真の生涯の代表歌という点から見ると、「百人一首」の歌に選ばれている「このたびは…」より、人生の一大転機に詠まれた「こち吹かば…」の方が適当ではないかという気もします。左遷では内容が暗く不吉だから避けられたとも考えられますが、11番の小野篁の作、
〈わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟〉
は、「古今集」の「羈旅」にあるもので、篁が遣唐副使として出発したものの難破して、再度の出発で前回大破した正使に船を譲るという命に抗議したため、隠岐島に配流になった折の歌です。歌の内容は、大海に浮かぶ数々の島に向けて船を漕ぎ出したと都の人に告げてほしい、漁師の釣船よ、というもので、島流しとなった心細さを都の人に伝えようとした歌です。
道真の「こち吹かば…」とまったく同じ状況で、流罪の歌は不吉だから避けなければならなかったということはないようです。「このたびは…」を選んだ理由は他にありそうです。
この点で、筆者が最大のヒントと考えるのは、「百人一首」で道真歌と同じく紅葉の美しさを詠んだ、道真から二首先の26番目に位置する貞信公(藤原忠平)の歌です。
〈小倉山 峯の紅葉葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなん〉
「拾遺集」の「雑秋」にあって、その詞書によれば、宇多上皇の洛西大井川への御幸の際、紅葉があまりに美しく惜しいので、上皇の仰せで醍醐天皇の行幸(みゆき)を勧めようとした歌とのことです。歌の内容も、紅葉に心があるなら、上皇に加えて天皇による、もう一度の行幸まで散らないで待ってほしい、と紅葉を擬人化して望みを訴えたものです。これは延喜七(907)年9月のこととされますが、「大和物語」九九段にも忠平の和歌を含めて同様の説明とともに見え、その末尾には、このことが以後の天皇の大井川行幸の初めになったとあります。
つまり、紅葉の華麗な美しさを上皇と天皇が共に楽しむということで、勝事の先例ともなるめでたさが忠平によって詠まれています。その忠平は、早世した兄・時平を継いで氏の長者となり、歴代天皇の下で摂政関白を歴任して、現実的政策を採り、藤原氏がその後に栄える基盤を築いた人物です。
筆者は、この忠平の紅葉の歌と対になるように道真の歌は選ばれたのではないかと考えています。「このたびは…」の和歌は、道真を最も重く用いた宇多上皇に従った旅での作ですが、和歌が詠まれた奈良は道真の氏、菅原氏の前の土師氏の時代からの出身地という格別な土地です。奈良市菅原町の菅原天満宮は菅原神社とも言われ、野見宿祢と道真を祀る式内社です。上皇に従い旅をした翌年に生涯での頂点とも言える右大臣に任ぜられます。「このたびは」の歌は、道真を最も信任した上皇を彼の父祖の地に誘う旅でもあったのです。この旅で詠んだ詩には「雨の中、錦を衣(き)て故郷に帰る」と、高名な「史記」の詩句による箇所もあります。紅葉のあでやかさには、道真歌も忠平歌も、彼らの慶賀すべき喜びまで反映しているように感じられます。「百人一首」では、悲劇の象徴の「こちふかば」ではなく、道真の栄光の象徴とも言える「このたびは」を忠平の歌と紅葉を詠むことで対として並立させて、道真を顕彰しようとしたのが編者の意図ではないかと考えます。
道真の歌人としての評価の一端を見るため、「古今集」から「新古今集」までの道真の入集を見ると、初めの三代集を合わせて10首、その後ゼロが続き、「新古今集」に至って唐突とも言えるように16首の入集になります。そのうち13首が「雑下」冒頭に連続し、そのすべてが道真の晩年の太宰府での思いを詠んだものです。「山・日・月・雲…野・道・海…」という目前の自然を題とし、「海」題の一首を挙げれば、
〈海ならず たたへる水の 底までに 清き心は 月ぞてらさむ〉
と、深い絶望に沈みつつも限りない心の潔白を、澄んだ月の光が照らしてほしいと詠んでいます。こうした和歌が多く収められていることには、この時期での道真の悲劇に対する深い共感と感銘が推測されます。「百人一首」の場合も、文化を第一としつつ世俗に交わる編者・藤原定家が、悲劇のヒーローとしての道真へのリスペクトから、彼が喜びに輝き最も華やいだ瞬間の作品を選び掲げたのだと思うのです。
《参照文献》
人物叢書 菅原道真 坂本太郎 著(吉川弘文館)
百人一首の作者たち 目崎徳衛 著(角川書店)
コレクション日本歌人選 菅原道真 佐藤信一 著(笠間書院)
大和物語 新編日本古典文学全集(小学館)
扶桑略記 新訂増補国史大系(吉川弘文館)