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さあ初夏です。1000年以上続く和歌の歴史の中で「百人一首」も進化していますよ!
こんな疑問を持たれた方もいらっしゃることでしょう。それは平安時代末期から鎌倉時代初めに生きた宮廷歌人、藤原定家が息子の嫁の父、宇都宮蓮生(うつのみやれんしょう)から「別荘の障子を飾る和歌を100首選んでもらえませんか」との依頼に応じて、100人の歌人の和歌をひとり1首ずつ選び100枚の色紙にして贈ったと、自身の日記である『明月記』文暦2年5月27日に記されていたことに由来します。この時和歌をまとめた場所が「小倉山荘」だったので『小倉百人一首』とよばれるようになったといわれています。
選ばれた100首は飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳天皇まで数百年に亘ります。年代順に並べられており、定家の生きた時代まで和歌の歴史すべてから選んだことがわかります。
歌の主題はやはり「恋」、季節は「秋」を詠ったものが多く選ばれており、定家の好みが表れているようですね。
平安時代に貴族の間で流行した室内の遊びに「貝合わせ」や「貝覆い」があります。はまぐりの内側に『源氏物語』や『伊勢物語』などの物語絵を描き、同じ絵を合わせて取るものや、絵の代わりにみんながよく知っている和歌の上句と下句をそれぞれに書き、上句と下句を合わせて取るものもありました。
はまぐりは大きさも手頃で、内側の白い面はキャンバスにも色紙にもなり、またひとつの貝がぴったりと合う、という貝の特徴をすべて生かした素敵な遊びでした。
貝の代わりに紙の札が使われるようになって「歌がるた」に発展していきました。和歌の全句が書かれた読み札と下句が書かれた、取り札という今のスタイルができあがったようです。札に書かれる歌はさまざまだったようですが『小倉百人一首』を用いたものが最も盛んに使われ、「歌がるた」といえば「百人一首」をさすようになりました。
かるた遊びの始まりは江戸時代の寛永年間頃、大奥御殿女中の間からということです。江戸城の奥、御台所の側近としてお世話をする女性たちの多くは公家出身の娘たち。口ずさむほどになじんだ『小倉百人一首』の歌がるたに興じる姿は想像にかたくありませんね。
さあ、百人一首の中でも有名な一首です。誰もがわかる英語を使って詠われています。元の歌はおわかりになりますか?
So this is the place
The crowds,
coming
going
meeting
parting;
friends
strangers,
known
unknown-
The Osaka Barrier.
蝉丸の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」です。
「なるほど!」と思わず膝を打ちたくなる素晴らしさを感じました。
逢坂の関を越える、とは別の国へ行くこと。出会えば必ずくる別れ、ひと時として止まることなく過ぎてゆく時の流れに感じる人生のはかなさと無常感が、平易な英語で「行く」「来る」「知る」「知らぬ」の対句をリズムにのせて表現しています。
和歌の形は五・七・五・七・七の5句、三十一文字(みそひともじ)でリズムを持ち、7世紀には完成され1000年以上の歴史を持つ日本独特の詩です。自然との調和の中に生きる日本人の感性が脈々と詠われてきました。とても外国語に移すことは難しいだろう、と思いがちですが歌の心を読み解いていくことで見事に表現できるものなのだと感動しました。
興味を持たれたらぜひお手にとって見て下さい。新しい和歌の世界が開かれています。
新元号の出典となった『万葉集』に注目が集まっています。連綿とつながる和歌の世界を遠い古典にしておくのではなく、今に息づく私たちの文化の基盤としてもっと理解を深めていきたいですね。
出典:ピーター・J・マクミラン『英語でよみとく百人一首大図鑑』ほるぷ出版