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「メンターム」を広く日本に普及させたのは、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズというアメリカ人でした。
今回はヴォーリズの波乱の人生を追いながら、「メンターム」の歴史をひもといてみましょう。
1905(明治38)年、24歳のヴォーリズは、滋賀県近江八幡の県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日します。建築家になる夢を捨てて、外国伝道のため「教師募集」の求人広告を見て、はるばる海をわたって日本にやってきたのでした。
ところが、ヴォーリズの教師生活は2年で終わります。日本語もわからないヴォーリズでしたが、課外で自主的に開催していたバイブルクラス(聖書勉強会)に生徒が多数集まるようになり、それが地域との宗教的な対立を生むことになってしまい、学校は地域からの要望でヴォーリズを解雇したのでした。
ヴォーリズはそのまま近江八幡を本拠に独自の伝道を始めます。八幡商業の教え子たちも活動を支援し、この中には生涯を通してヴォー リズの事業パートナーになった生徒もいました。
ヴォーリズはいったん帰国して翌1908(明治41)年、建築家とともに再来日し、商業学校を卒業したばかりの教え子と3人で建設設計の仕事をスタートさせます。建築活動は彼の伝道を支える経済基盤として始まりました。
それは住宅から学校、教会、デパートメントやホテル、オフィス……その数は戦前だけで1500件を数えたといわれます。
1920(大正9)年、ヴォーリズは「近江セールズ株式会社」(後に「近江兄弟社」に変更)を設立し、「メンソレータム」の輸入販売が開始されました。
もともと近江兄弟社の主力商品は、「メンターム」ではなく「メンソレータム」。
「メンソレータム」といえば……あの、リトルナースでおなじみの、「メンターム」に容器も中身もよく似た軟膏薬ですね。
メンソレータムは、アメリカ「メンソレータム社」の製品。同社の創始者とヴォーリズの出会いによって、日本でのメンソレータム販売権が得られました。
メンソレータムの販売はヴォーリズの事業を資金面で大きく支え、自給自足での事業運営と「事業を通じて神の証(あかし)をする」という近江兄弟社の理念実現を後押ししたといわれます。
ところが、創業者ヴォーリズの亡き後、近江兄弟社は1974年12月24日に会社更生法を申請。これにより、メンソレータムの販売権を失うこととなりました(メンソレータムの販売権はロート製薬が取得)。
近江兄弟社は大鵬薬品工業の協力を得て再興を模索するも、メンソレータム社から「メンソレ-タム」生産継続の交渉を断られ、メンソレータムの製造設備を利用したオリジナルの類似製品を販売することになりました。
そうして生まれたのが、メンソレータムの略称として商標登録してあった「メンターム」。新たに主力商品として製造を始め、自主再建の足がかりをつかんでいきます。
また、近江兄弟社再建にまつわる、こんなエピソードがあります。
メンソレータムの販売権を失った近江兄弟社の自主再建にあたり、大鵬薬品工業、小林社長(当時)から『善意』として1000万円が贈呈され、「薬業史飾る男のロマン」と報じられました。
近江兄弟社はこの資金を運営費に充てず「大鵬基金」として定期預金。「善意に応えなければ」という再建に取り組む社員の心の支えとなり、黒字転換を果たします。
また、この小林社長の『善意』は「困窮の時に助けて頂いた私たちが、今度は社会で困っておられる皆様に恩返しをする」という近江兄弟社のニコニコ活動の原点となったそうです。
「近江兄弟社」の社名の由来は、創業者ヴォーリズの愛した「近江」の地名と、クリスチャン精神に基づき目的に向かって心を一つにする仲間という意味を持った「兄弟」を合わせて命名されました。
言葉もわからず、知り合いもいない日本へ単身赴任した青年が、建築家、実業家……として多岐にわたる業績を残し、それは、近江商人発祥地である近江八幡を拠点に活動したことから、「青い目の近江商人」と称されました。
太平洋戦争当時、開戦の気配が濃くなり多くの外国人が日本を離れる中、ヴォーリズは自らの意志で日本への帰化を選択。妻(一柳満喜子)の姓をとり、一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)と名乗りました(「米来留」とは「米国より来りて留まる」の意)。
最後に、建築家としてのヴォーリズの作風は、人を驚かせるかのような建築家の自己主張をよしとせず、建築依頼者の求めにふさわしい様式を選択し、住み心地のよい、健康を守るによい、能率的建物を目指したともいわれています。
ヴォーリズ建築事務所では毎朝8時、仕事にかかる前に全員が製図室に集まって祈りの時がもたれ、各自が神様の愛にふれ、感謝し、人の心を生かす建築設計をおこなったということです。
参照/ 株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所