- 週間ランキング
吉田松陰は、名は矩方(のりかた)、通称寅次郎。松陰は号です。天保元(1830)年、貧しい長州藩士の家に次男として生まれた寅次郎は幼くして、萩で山鹿流兵学師範を務める叔父の吉田家を継ぐことになります。スパルタ教育を受けた寅次郎は常に机に向かい勉学に勤しみました。11歳の時には藩主毛利敬親の前で「武教全書」の講義を行い、感動させたほどの秀才となったそうです。
幕末の志士、思想家、教育者となった松陰の契機は3回あったと言われます。その第一が嘉永3(1850)年、21歳の時の九州遊学です。彼はこの旅を契機に、新しい実践的学問に転じていきます。海の向こうで清がアヘン戦争でイギリスに敗北し、西洋諸国の東アジアでの動きに危機意識が芽生えていたのでしょう。当時、唯一海外に開かれた場のあった長崎で、寅次郎は中国やオランダの領事館で貪るように情報収集したとのこと。小倉、平戸などの港も自分の眼で確かめています。
彼はこの旅の日記の中で、学問の考え方についてこう記しています。「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機あるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。発動の機は周遊の益なり」。経書を読む書斎ではなく、現実の世界との接触・交流が、活き活きと力を発動するのだと確信したのです。
相模や房総など江戸周辺の海岸を観察し、現実的な海防策の必要性を痛感した寅次郎は、海外情勢の正確な把握の必要性を説き、西洋兵学を学ぶために佐久間象山の門に入ります。西洋軍事技術の修練を挙国的に進めるべきだと唱え、嘉永4(1851)年、22才の寅次郎は翌年まで、水戸で水戸学派の者たちと交流し、白河、会津、新潟、佐渡、秋田、青森、盛岡、仙台と東北各地を視察。この頃、松陰の号を用いるようになっています。
松陰は突き動かされるように旅を重ね、途中亡命の罪を問われますが、藩主敬親の特別の計らいで、更に10年の諸国遊学が許されたのでした。嘉永6(1853)年、松陰は再び萩を出発し、途中京都で諸国の志士と交遊を深めたのち江戸へ戻ります。この24歳の年が、松陰の運命が決定付けられた第二の契機となりました。
浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにした松陰は大きな衝撃を受け、密航を図るに至ります。翌年安政元(1854)年3月27日夜、伊豆下田沖に停泊中の艦隊に乗船した松陰と弟子の金子重輔は、アメリカ渡航を求めるものの失敗。二人には国許幽閉が申し渡され、 萩に帰った松陰は野山獄に繋がれました。しかし『孟子』の勉強会を開くなど、松陰は獄内を互いに学び合う場としていきます。
1年で松陰は実家に戻され、幽囚下で「松下村塾」が始まります。この塾が開かれた期間は僅か2年間余り。その中で明治の元勲として活躍した若き伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋などが巣立っていったのです。松陰は孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり」という言葉を愛しましたが、誠心がいつかは受け入れられていく、という思いを継いだのが松下村塾の弟子たちだったとも言えるでしょう。
幽閉されつつも日本の独立と安全の方法を模索していた松陰ですが、ついに第三の契機が訪れます。安政5(1858)年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知り、29歳の松陰は激怒、老中の暗殺と尊王討幕の計画を巡らすに至ります。結果投獄された松陰は井伊直弼による安政の大獄が始まると江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、翌年10月27日、斬刑となりました。
処刑前日の10月26日に書き上げられた、いわば門下生への遺書が『留魂録』。すでに死を予知して、松陰自身の心境と同志への遺託が切々と記されています。その冒頭が、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」の歌。現代語で言えば、「自分の命がこの武蔵野で果てる事となっても、国を思う大和魂はこの世で生き続ける。」といったところでしょうか。『留魂録』には次にご紹介するような言葉があります。
「今日死を覚悟しても心の平安があるが、これは春・夏・秋・冬の四季の循環において考えるところがあったからだ。かの農事のことをみるに、春に種をまき、夏に稲を植え、秋には刈り、冬はその果実を貯蔵する。秋・冬になると、百姓はみなその年の労働の成果を喜び、酒を造り、甘酒をつくり、村中に歓声がみちみちるのである。いまだかって、秋の収穫期にのぞんで、その年の労働が終わることを悲しむ者を聞いたことがない。」
「この私の身についていえば、花咲き実結ぶの時である。必ずしも悲しむことはないであろう。」「三十歳にはおのずから三十歳の四季がある。」「もし同志の中でこの私の心あるところを憐れんで、私の志を受け継いでくれる人があれば、それはまかれた種子が絶えないで、穀物が年から年へと実ってくるのと変わりはないことになろう。同志の人びとよ、どうかこのことをよく考えて欲しい。」
こう書き遺した松陰の人生は、国の各地を駆け抜けて物事を自分の眼で確かめ、交流した人びと全てに誠心を尽くし、知識を惜しまず教えて説いた怒涛の日々でもありました。そんな彼の想いへの共感から激動の時代の今もなお、松陰神社にたくさんの人が訪れるのかもしれません。
<文の引用と参考文献>
吉田松陰(著)松本 三之介(翻訳)松永昌三(翻訳)田中彰(翻訳)『講孟余話 ほか』(中央公論新社)