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現在日本で栽培されている野菜は数多くありますが、日本原産の野菜はほんの10種類くらいなのだとか。なかでもセリは、『古事記』『日本書紀』の時代から文献に登場し人と深く結びついてきた、日本最古の野菜でした。
聖徳太子(厩戸王)には、4人の奥さん(妃)がいたといいます。なかでも寵愛されたのが、膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)。8人の子をなし、晩年はずっと太子の側にいたそうです。病に臥す太子の看護をして同じ病にかかり、太子の前日に亡くなって同じお墓に入ったと伝えられています。じつはこのお妃さまは「芹摘姫」と呼ばれていて、なんと庶民出身。そのシンデレラ・ストーリーとは……。
若き聖徳太子が推古天皇の宮に参上するとき、その装いの麗しさに道行く人々は野に伏して拝んでいました。ところが、ひとりだけ脇目もふらずセリ摘みをしている身分の低い女がいるではありませんか! 太子は怪しんで、役人に尋ねさせます。すると「母のためにセリを摘んでいるので、いま手を休めるわけにいかない」との答え。その孝行ぶりに感動した太子が、妃として邸に連れ帰った、というのです。お母さんのためのセリとは、どのような効能を求めて摘まれていたのでしょうか?
山形県白鷹町にはこんな民話があります。孝行息子が「親を若返らせてください」と祈ると、夢枕に神さまが立って「七日正月の日、七草を食べて何千年も生きてきた白鳳という鳥がいる。鳥にみつからないように六日に七草を摘み、親には歯がないから叩いて柔らかくしてセリを混ぜ、七草粥にして食べさせよ。鳥が帰る酉の刻までにみなで食べよ」とのお告げが。息子が言われたとおりにすると、毎年10歳ずつ(!)若くなり、末永く親子仲良く暮らしたそうな……これが七草粥のはじまりである、と伝えられているそうです。
日本では昔から正月七日に七草を粥にして味わい、一歳(いちねん)の邪気を祓うとされてきました。凍てついた大地から芽生える青々とした草。春先に若菜を食することは、春が巡るように若返りのエネルギーを体内に取り入れることと考えられたのです。とはいえ、現在のような七草になったのは室町時代以降のこと。セリだけが、古代から特別な若菜として歴史書に記され、万葉集にも詠われているのです。清らかな白い根で『根白草』とも呼ばれ、神事の食材にも用いられてきたセリ。ビタミンCやβ-カロテンが豊富で強い抗酸化作用をもち、鉄分で血を増やし、肝機能も高めるといわれています。そんなセリのアンチエイジング・パワーは、古くから注目されていたのですね。
万葉集には、位の高い人がセリを摘んでいることを示す歌が収められています。役人の男性が歌とともに自ら摘んだセリを贈り、女性が歌でお返しします。
「あかねさす 昼は田賜(た)びて ぬばたまの 夜の暇(いとま)に 摘める芹これ」
(明るい昼は班田の業務に追われ、真っ暗な夜になってやっと得られたわずかな暇に摘んだセリですよ、これは)
「ますらをと 思へるものを 太刀佩(は)きて かにはの田居に 芹ぞ摘みける」
(頼もしい男と思っていましたのに、太刀を付けたまま、かには(地名)の泥田の中を蟹が這うような姿で、セリなんぞを摘んでくださったのね)
さりげなく入手の苦労を語り価値をわからせたい男性側と、自分のために汚れ仕事も厭わない男を憎からず思う女性側との、恋の駆け引き。セリには「競り勝つ」という意味の由来もあり、ここぞという勝負プレゼントにも用いられたのでしょうか。
『源氏物語』の宇治十帖には、人からセリを贈られても、亡くなった父が恋しくて春を喜ぶことができないでいる姫君姉妹の場面が描かれています。セリは「春到来のしるし」として定着していたようです。平安時代にはセリの栽培がはじまり、『延喜式』にはセリの漬け物の記述も。当時の人々が新鮮さをたのしんで食べ、季節の風物を人に贈ることでともに楽しもうとしていたことがうかがえます。そんな日本人の美意識は、今も変わりませんね。
身分によって食べる物が違うという時代に、セリだけはなぜか高貴な人も野に出てしゃがんで摘み、シャリシャリと食べていたようです。異性がセリを摘んだり食べたりする姿を垣間見て一目惚れし、恋い焦がれて死んでしまうような事態も……当時の人にとってセリは、身分を超えて萌える草であり、いろんな意味で春を目覚めさせる食べ物だったのかもしれません。
野性のセリが盛んに生えるのはもう少し先ですが、現代でもわりと身近で見つけられます。ただし、毒ゼリもあるのでご注意を。食べられるセリを見慣れていない方はとくに、詳しい人と一緒におでかけください(リンク先『毒ゼリの見分け方』もどうぞ)。
店頭にはお粥用にパックされた七草も並びます。明日の朝はぜひセリを入れた七草粥で春の到来を楽しんでみてはいかがでしょうか。
〈参考〉
『春の七草』有岡利幸(法政大学出版局)