阪神藤本敦士コーチ(2024年9月1日撮影)

阪神藤本敦士総合コーチ(47)が阪神・淡路大震災から30年の節目に、今の思いを寄せた。育英(兵庫)で震災直後のセンバツに出場。プロでは地元球団の阪神で選手、コーチとして3度の優勝を経験。胸に息づくものとは-。

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藤本コーチが住んでいた兵庫県明石市のマンションも大きく揺れた。育英高校は甚大な被害があった神戸市長田区にある。普段40分の道のりが5時間近くもかかった。新長田駅を降りると見慣れた光景はどこにもなかった。学校は避難所になっていた。センバツ出場が確実視されていたが、野球どころではなかった。

「衝撃的でした。練習ができない不安は芽生えてこなかった。この状況で野球やったらあかんやろと。甲子園の開催が決まってから、こそこそとキャッチボールはしたけど、何が正解なのか分からず、ずっと半信半疑でやっていました」

待ち焦がれた初の甲子園。センバツ開催と出場が決まっても「素直に100%喜べませんでした」。大会中に心境が変わった。

「1回戦に勝って、宿舎に帰ってニュースを見た時です。避難されている方が体育館で涙を流して『ありがとう』とおっしゃっていた。間違いじゃなかったんやなと。全員が全員には伝わらないけど、初めてスポーツの力で人に勇気を与えられるんやなというのを確信できた。僕らがありがとうと言いたいくらい。道を示してくれました」

6年後、プロとして地元に帰ってきた。03年、05年はレギュラーで優勝に大きく貢献。23年は1軍コーチで優勝、日本一にも輝いた。03年と23年に経験した神戸・三宮での優勝パレードは特別だった。

「町がすごく活気づいていて、人間の力ってすごいなと。これだけしっかりとした町に戻すのはすごく大変だったと思う。たまに子どもと神戸の町に行くと、ここがこうやったんやでとか説明します。家にある野球のヘルメットを、防災用のヘルメットにしようと話したり。子どもも野球のヘルメットは持っていますけど、それ大事やぞ、と言っています。地震が起こったらどこに逃げたらいいかとか。子どもの方からも結構言ってくれる。学校でも教えが浸透しているんやな、とすごく思いますね」

今年も阪神でユニホームを着る。これから兵庫に根を張る球団の一員としてなすべきことは何か。

「おこがましいけど、僕たちが経験したことを伝えていきたい。この前のコロナもだけど、いつ自然災害とかが起こるか分からない。1日1日が本当に大事。選手には、今できていることに幸せを持ってほしい。阪神が勝てば喜んでくれる人がたくさんいる。何とかみんなを笑顔にしたいという思いはすごくあります」

兵庫県で生まれ育った者として、使命をあらためて胸に刻む日でもある。【柏原誠】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【阪神】藤本敦士コーチ「野球やったらあかんやろと」阪神・淡路大震災から30年に思い