阪神岡田監督(2024年9月30日撮影)

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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阪神タイガース史上、この2シーズンは大転換点になった。球団創設以来、2リーグ分立後、複数回の優勝を果たした監督は2人しかいない。藤本定義と岡田彰布。それぞれ2度のリーグ制覇を達成した。

岡田は長く続いた低迷期に終止符を打った。指揮をとった計7シーズンで2度のリーグ制覇、日本一を達成。勝負の世界は一寸先は闇、結果がすべて。阪神では限られる“名将”の称号を手中に収めた。

阪神は岡田の退任から間を置くことなく新監督を誕生させる。コーチの処遇から人選なども含めて用意万端だったのだろう。大功労者のセレモニーをすっ飛ばされたファンはあっけにとられたに違いなかった。

しかも、周囲が何事もなかったかのように、新監督の話題に転じて盛り上がっている現象は、いかにも違和感がある。ここはこの2年間を振り返りながら検証し、次に向かうべきだろう。

今シーズンのV逸は、どれだけ連覇が難しいかを物語っている。初代日本一監督・吉田義男は「今思えば、あの巨人との一戦がポイントでしたな」と残念がった。阪神は9月22、23日の巨人戦(甲子園)で連勝すれば、ゲーム差なしの2位だった。カード初戦は1対0で勝ったが、続く2戦目は0対1で完封負けを食らった。

そして、ついにはい上がることはなかった。最近は用いられることはなかったが、古くからの「巨人を倒さないと優勝はない」との言い伝えが頭に浮かんでは消えたものだ。

かつては吉田も同じ境遇をたどった身だ。1985年(昭60)は日本一に上り詰めたが翌86年3位、87年は最下位に転落した。阪神監督の立場で岡田の心のひだを理解できる、もっとも近い存在といえる。

「わたしの1回目の監督は何も分からないうちに終わりました。2度目は優勝して若い選手が育つんです。胴上げされましたが、私を持ち上げるものもいれば、引きずり下ろすものもいた。そして最終年はどん底の辛酸をなめる。世の中を知りました。そしてフランス(代表監督)に行くんですが、もう監督は2度とやるまいと思った。でも3度目は、女房も、娘からも反対されましたが仕方ありませんでした」

岡田が監督に就任したいきさつも、だれよりも阪神タイガース史を知り尽くす。「岡田の功績は大きいです。大事にせんとあきませんわな」とつぶやくのだった。

「基本的に岡田はよくやりました。チームを変えました。ほとんど補強もしていません。昨年のMVPは、選手ではない、岡田でした。今年も最後まで優勝争いをした2位で十分に球団に貢献した。どの監督があんなに主力を2軍に落とせますか。今年に関してはちょっと“オカダの考え”についてこれなかったかもしれない。でも洞察力、ここが勝負と思ったところの読みはさすがでした」

うるさいほど“当たり前”を繰り返し、失敗すれば批判を浴びたコンバートを成功に導き、四球を選ぶのでなく、好球必打を説いた。「優勝」の2文字を封印した先の“アレ”だった。

吉田がたどった道に似たのは、誰もが気付いていた。両者を取材していて共通するのは、野球に対する厳しさだ。吉田は「岡田の選手をみる眼力は厳しい。藤本監督ともタイプは違った」と説明した。

「藤本さんは“伊予の古だぬき”と言われたほどで、選手をおだてながらうまく使われた。岡田は黙って選手を育てた。厳しく、かつ激しい監督でした。昔から勝負強いといわれた監督がもっておられたのと共通したものをもっていたようにも思いますね」

プロ野球最年長監督は野村克也の74歳。時代が変われば、また“総監督”として再登板しているかもしれない。まずは岡田に拍手を送るのが先だろう。(敬称略)【寺尾博和】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 阪神初代日本一監督・吉田義男と同じ境遇 “名将”岡田彰布に拍手を送るのが先/寺尾で候