本間はカズから贈られたユニホームを持ち、感謝を口にした

今シーズン限りでの現役引退を発表したJ2水戸ホーリーホックのGK本間幸司(47)が9月30日、茨城・水戸市内のホテルで引退発表会見を行った。

水戸で26年間プレーし、現時点でJ2歴代最多の通算576試合に出場したレジェンドが、クラブやサポーターへの感謝を口にしつつ、今季残り5試合で出場機会をつかみ取り、チームの勝利に貢献すべく一選手として全てを注ぎ込む覚悟を語った。

以下、主な一問一答。

-冒頭あいさつ

本日はお忙しい中、あつまっていただきありがとうございます。水戸ホーリーホックGK本間幸司は浦和レッズで3年、水戸ホーリーホックで26年の現役生活を終えることを決断しました。本当にこんなに長くできるとは思っていなかったですし、若い頃の僕を知っている皆さまはこんなにも長くできると思っていなくてびっくりしていると思います。

-引退を決めた経緯は

47歳になり、やはり30歳代半ばくらいから引退ということは毎年考え、「今年が最後の年だ」という思いを持ちながら毎年やってきたというところはありました。40歳を越えてからなかなか試合に出ることができなくて、そこでもやっぱり自信もありながらやってきました。ゲームに出る喜びではない、違うものをたくさん求めてもらったし、GKというポジション柄、なかなかチャンスがもらえない中でフィールドの選手とは違う仕事というか、僕の地元でもあるし、チームのために、チームに若い選手が多かったので僕の役目があるなとやってきた中で、今年くらいになってどうしても疲労が強くなってきました。プレー的には、僕の代名詞である圧倒的なシュートストップが自分のある程度の基準になかなかいかなくなってきた。俺が一番シュートを止めているよというのがゲームに出ていなくても支えになっていた部分だったんですけど、そういうところが下がってきてしまって、そろそろかなというか、自分に示しがつかないし、チームにも示しがつかないなと思って引退を考えるようになりました。

(発表の)タイミングも考えました。シーズンが終わってから、しっかりやりきってから言いたかったというのも本音ですけど、クラブを応援してくれているサポーターを一番愛していますし、ホーリーホックを本当に愛してくれている一員として(サポーターに)先に伝えておくべきなのかなと思いまして、このタイミングを選びました。

-水戸ホーリーホックでプレーしてきて記憶に残るターニングポイントは

一番印象に残ることとして最初に思い出すのは、このクラブに来たときのこと。浦和レッズで3年間プレーしていて、全く試合に出られずサッカーを諦めようかなと思っていた時に水戸に来まして、初めて練習したのは土のグラウンドで、ゴール前には野球のマウンドがあって「ここでやるの?」とも思いました。その中でも一緒にプレーするチームメートたちがものすごい情熱でプレーしていて、ある意味レッズの選手に負けないくらいの情熱で泥んこになりながらやっている姿を見まして、その時に自分の甘さというか、自分のサッカーに対する姿勢をもう1回考えさせられた、衝撃を受けたのを覚えています。1年間、試合だけ出て辞めようと思っていたんですけど、初日の練習でこの仲間たちとプレーしたいと思えた。そのチームメートとJFLからJ2に昇格できたのは大きな思い出ですし、そこで昇格がなければ(チームが)なくなっていたというのを聞いたときにはびっくりしましたけど。そのチームメートたちはJリーグでプレーしたことのない選手たちだったので、その仲間たちとJリーグで戦えるという喜びはありました。

(2000年3月11日の)J2開幕戦が浦和レッズと駒場で試合ができたのはすごく大きな喜びでしたね。僕も高校を卒業して浦和に入ったんですけど、実は他のチームに(進路が)決まっていて、最後に浦和の練習に参加して、ホームゲームに連れて行かれて、このサポーターの前でプレーしたいと感じて浦和に(進路を)決めました。浦和のサポーターは今でも世界に誇れるサポーターだと思う。浦和の一員として試合に出たいと思っていたので、それはかなわなかったけど、開幕戦で水戸の一員としてあのサポーターの前でプレーできて、サッカーの神様ではないですけど、素晴らしい巡り合わせをくれるんだなと身をもって感じましたし、すごく覚えている試合ですね。

(印象に残る試合は)長いことやっていたからたくさんあるんですけど、あと思い出すのは、やはり(2011年の)東日本大震災後の一番最初のホームゲームですかね。もちろん僕も被災しましたし、ちょうど練習を始める30分くらい前にストレッチしていたら大きな揺れがあって、当時の監督の柱谷(哲二)さんはご存じのように闘将と言われた方で、翌々日くらいに試合が予定されていたので、「もしかしたら試合があるのかも」と言うことで余震の中で怖い思いをしながら練習した思い出があります。練習の帰り道にとんでもない事態が起きたということを理解できましたし、チームは一回活動を停止して2~3週間後に集合したんですが、「本当に僕らはサッカーをやっていいのか」と感じました。茨城も「忘れられた被災地」と言われるくらいでいろいろとすごく大変な思いをしている人たちがいたので、そういう人たちとともに練習後に避難所に行ってサッカー教室やったりトレーナーはマッサージしたりしたのを覚えています。

(11年4月23日の)試合は、サッカーの神様は見ているじゃないけど、(2〇1で)逆転勝利をして。実力ではない何かが、神がかったゲームでもあったので、印象深いですね。ゲーム終了後にスタジアム一周した時に、そんな大変な中でもお客さんがたくさん見に来てくれて、一緒に涙を流して「これから頑張ろう」「勇気をもらった」と言ってもらえた。勇気をもらったのは僕たちなのに。

あと一試合あげるとしたらゲームには関わっていないけど、水戸史上一番J1に近づいた2019年最終節の岡山戦ですかね。あの時のスタジアムの雰囲気は水戸史上最高でしたし、スタンドで見ていて26数年前にこのような風景を見られるとは思っていなかったので、鳥肌が立ち、熱い思いがこみ上げてきたのを思い出しますね。

-水戸加入以来、クラブの成長について

ものすごい変わりましたね。長く続けてきたのは苦しい時代に一緒に戦った仲間たちに誇ってもらえるようなチームになりたいという思いが強かったので。当時の10年、15年前の仲間たちが今の環境に来て、ここで練習やっているんだよというところを見せたいですよね。それだけでみんな驚くだろうし。練習グラウンドも毎日違ったり、水道で体を洗ったりとか、それが当たり前だったので。今はアツマーレがあって、きちんと「家」があるというのが水戸が力をつけてきた大きな要因だと思うし、やっといっぱしのサッカークラブになってきたんだよというのを見せたいですし、僕自身もアツマーレができたのが40歳を超えていたころかと思います。初めて自分のクラブで自分の背番号1のロッカーがあって、他のクラブでは当たり前なんですけど、そこに座って準備できるというのは喜びを感じましたね。ここ7~8年でグッと成長スピードが上がってきたクラブですので、もっと成長速度を上げたいし、僕もそこに加わりたい。20年前はJ1昇格なんて口に出せないクラブだったんですよ。でも、今は堂々と言えるクラブになった。それを一緒にかなえたいし、選手としてはかなえられなくてすごく大きな夢だっただけに残念でしたけど、J1昇格したときに僕もこのクラブにいたら幸せだと思いますし、その喜びを分かち合える日がきたら幸せだと思いますね。

-サポーターへのメッセージはありますか

サポーターにまず言いたいのは一昨日の試合(9月28日のアウェー鹿児島戦)は本当に申し訳ありませんでした。あんな情けない試合をしてしまいまして。僕も先週の頭にみんなに引退することを伝えさせてもらったんですけど、いろいろなことを考えながらサッカーに全集中できてなかったので、そういう雰囲気がチームに伝わってしまったのかなと反省しておりますので、この会見を機に本間幸司、サッカー選手として最後の試合まで引退のことは頭から除いて全力でもう1回ネジを巻き直してプレーしたいし、チームも2度とあんな試合をしないでしっかり戦ってサポーターと「良い1年だった」と言えるような試合を残り5試合やっていくことを約束したいし。それをまず言いたいです。あとは長年応援してくれている人たちが僕の支えになっています。同じものを愛する仲間ですし、選手やスタッフはたくさん入れ替わるけど、サポーターはずっと一緒ですごく絆を感じているし、彼らとたくさんしゃべりますけど、本当に感謝してますね。家族以外では一番感謝しているのは応援してくれているサポーター、水戸を愛してくれている人たち。僕の大きな力ですし、このクラブの大きな力ですし、ここまでやってこれた大きな要因だと思います。

-47歳まで現役を続けてこれた要因は

まずは丈夫な体に産んでくれた両親には感謝したい。こう見えても僕は小さい頃は体が弱くて、ぜんそくとアトピー持ちで小さい頃に母親もいろいろ厳しく育ててくれて今も丈夫な体でできている。僕はプレーもそうですけど、体の使い方というか、筋肉の連動、関節の連動などをすごく意識してプレーしていて、それがすごく良かったのではないかなと思う。一カ所に負担がかかる体の使い方ではなくて、そういうものを習得できたのは大きかった。それを最初に教えてもらったのは浦和にいた時に肩をオペして、トレーナーの野崎さんが僕の体の使い方について、能力は高かったけど「それでは長く続けられない。膝などに故障が出る」と言われた。前側中心の体の使い方から、後ろ側、肩甲骨や股関節などを使うことを勧められてそれを実践しながらGKの筋肉に落とし込みながら、考えてできたのが長くできた要因。もう少し無理すればまだまだプレーできると思っているが、そういう体の使い方は後輩のGKには伝えていきたいし、若手や育成年代の選手にも伝えていきたいと思っています。

-長年、プレーを続けてきた中で信念やこだわりはありますか

本当に生まれ育った土地で長くプレーさせてもらって、子供から大人にしてもらえて、自分のエゴだけでなく、チームのため、クラブのためというところを一番に考えてこられたのが信念というか、それだけは曲げてはいけないと。試合に出て助けたいという思いはありましたけど、出られなくてもチームが良い方向に行くならどうしたらいいかというのをたくさん考えましたし。600試合くらい出てきたので、40歳くらいで試合に出られないのを味わって最初は難しい時期がありましたけど、それでも自分よりも大切なもの(クラブ)があったというのは自分にとって幸福だったと思います。

-本間選手にとってJ1という舞台とは

最初J1のクラブにいたんですけど、29年プレーしてきてトップカテゴリーで1試合も出てない人はなかなかいないのではと思うし、J1で1試合も出られず引退になってしまったが、J1で出ることが夢だったし、それがかなうことがあればどんなに幸せなのかというのを思っていました。ここ数年はJ1を本気で意識できるクラブになってきたし、それ自体が幸せでした。それまでは勝てなかった時期があったので、下に落ちないようにとか最下位にならないようにとか、連敗止めるとか、そういうことが多かったので、上を見てプレーできたのはうれしかったですし、クラブがそのようになってきたのはうれしかったですね。

-引退という決断に未練はありますか

いや~、正直言うと難しい決断ではありました。一サッカー選手として、プレーヤーとしてはやはり試合に出たいというのが常に一番になければいけないと思うし、もちろんそれはありました。出られない時間が長かったので、試合に出る喜び、尊さはより一層感じていたし、それができない中で「このままやめていいのか」とも思いました。先日(9月1日)、日立で大宮と練習試合をやったときに90分久しぶりに使ってもらって「まだ全然戦えるな」とも感じたし、正直他のチームでもう少しやろうかなと考えて、実際そういうことを相談した人もいます。「一緒にやろう」と言ってくれた人もいたんですけど、そういう中でやはりこのチームで、このクラブでユニホームを脱ぐのが一番いいのかなと。(現役生活が、あっても)あと何年かかもしれない中で、もう1回このチームで試合に出てという思いがあり、最高のパフォーマンスをサポーターの前でして終わることができればと。そのような場は来るか分からないけど、そうじゃなくてももう1回過去最高の自分をこの1カ月で最終節までにしっかり作っていきたいなと思います。このクラブでユニホームを脱ぎたかったのが一番だと思います。

-若いGKにはどのようなことを伝えてきたのか

体の使い方だったりとか、若い選手は無理してプレーすることがあるので、無理なくスムーズに動けるようにしたり、一人一人違うので見て感じたことを伝えましたね。どのように動くとうまく使いながらプレーできるかというのも伝えましたし、やはりライバルですけど、仲間ですし、GKは関わっている時間多いので。あと精神的な支えになれればなとも思ったし、一緒にいる時間長いので、何を考えているかとかを感じることがあるので、そのあたりを伝えられればと考えていた。プレーに対しての情熱だったりとか、GKは長くやれるポジションで経験が大事なポジションなので、サッカー的な部分ではないところも大事になってくるので、そういうところも伝えられればと思って食事したりしました。僕もそうやって先輩方からいろいろ教わってきたので。

-今後のサッカーとの関わりは

本当にまだ引退するという実感はなくて、僕がやれることはやりたいと思いますし、僕自身自分のことよりも何かのためにという時にすごく力を発揮できる人間だと思うので、必要とされるところで愛するサッカーに携わって行ければいいと思っている。あとはGKの成長、育成に関わっていかなければいけないと思っています。

-水戸ホーリーホックらしさ?

やはり、粘り強さとか諦めないとか、戦うこと、泥臭さだったり。きれいなものではないかもしれないけど、数々の苦難を乗り越えたクラブなので、人の思いとか、命を懸けてきてくれたのを何人も見ていますし、そういう人たちのことを考えてできること、あきらめないとかですかね。下から這い上がっていくものの強さをこれからも見せていければと思っています。

-いろんな選手と対戦したが印象に残っている選手は?

印象に残った選手…たくさんいますね、長いことやっていたので。香川真司選手はC大阪とJ2で彼が17、18歳くらいの時にプレーしたときに面白い選手出てきたと感じました。DFラインの前でプレーした時に僕と目が合って、すごい選手だなと感じた。マンチェスターUの時にハットトリックして「人生2度目」みたいなこと言ってましたけど、1度目は僕からでしたね(09年5月17日、C大阪5〇3水戸)。前田大然なんかは会った瞬間から持っているものが違うと思ったし、絶対代表クラスになるなと感じた。スプリントもすごくて、メンタリティーも良い男でしたし。

最初に会って一番印象に残る選手は、浦和で今でもお世話になっている野人岡野(雅行)さん。公私ともにお世話になって。日本代表が初めてW杯に出た時に(アジア第3代表決定戦で)得点をとった人で、浦和ではお互いベンチに入れない時に国立のスタンドで一緒に試合を見ていたりして、そんな先輩が突然W杯最終予選の最後にベンチに入って試合に出て、最後に点を取って。大好きな先輩がすごいことをやってのけて、周りがすごいことになったのを目の当たりにしたので、僕はその時岡野さんのボディーガードをしてましたけど(笑い)。素晴らしい足の速さがあり、サッカーは上手ではないけど、間合いとか感覚的はまねできないことをたくさんもっていて、そういうことは大事なんだと学んだし、僕もシューターとかとの間合いとかをすごく大事にしたし。この引退を決めるのも岡野さんぐらいですね、相談したのは。

あと、さっき控室にいたら突然すごくうれしいものが贈られてきまして。(JFLアトレチコ鈴鹿所属の)カズさんから11番のユニホームをいただきまして。カズさんは小さい頃から見ていたし、J2で何回か対戦させてもらいました。ケーズデンキスタジアムでカズダンスをされたこともありました(15年6月29日、横浜FC1〇0水戸)。プレイベートで会わせてもらったのは数年前、(元水戸で現J3YS横浜の)中里崇宏を介して会わせてもらって、お互い次の日練習だったのでお酒は飲まず、カプチーノを飲んで。試合に出られない苦しい時にカズさんのサッカーへの純粋な思いに触れて、僕の中の心の炎が大きくなりました。諦めてはなかったですけど、もう1回本気でつかみに行こうというか、サッカーに対する本気度がまだまだ甘いと感じました。

-本間選手にとって水戸ホーリーホックとは

人生ですかね、一言で言わせてもらうと。育てていただきましたし、たくさんの仲間たちにも出会いましたし、大切な人とも会わせていただきましたし、本当に水戸ホーリーホックという奇跡のチームにプレーヤーとして26年間関われたことは本当にうれしく思いますし、水戸だからここまで長くプレーできたのかなと思います。

-残り5節、選手、チーム、サポーターに何を残したいですか

正直難しい質問ですけど、何を残せるか分からないですけど。今までもたいして何も残してないので、何ができるか分からないですが、最後までこのクラブのために全てをささげ戦っていく姿を見せるというが僕にできること、それしかないですかね。

-背番号1という意味?

小さい頃からサッカーをやっているとGKは1番というのはあるけど普通にそうだと思ってやってきた。結婚記念日も11月11日だったり、銀行の口座番号にも1が入っているし(笑う)1という数字は好きですね。いろんなことで1番にはなれなかったけど、1を目指してやってきたので、これからも1番を目指してチャレンジしていければと思っています。水戸に来た時は最初31番だったかな、JFLの頃は。あんまりこだわりはないけど、1番がしっくりきますね。いま、51とか21とか着ろと言われると変な感じ。シーズン前に番号分からないように別の番号を着たりするけど違和感がありますね。

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【水戸】レジェンドGK本間幸司の引退発表会見 主な一問一答をたっぷり