1968年夏の甲子園を沸かせた興南の主将だった我喜屋優選手は卒業後、大昭和製紙(静岡県富士市)に入社して社会人野球の世界に入った。数年後、大昭和北海道(白老町)へ。沖縄で生まれ育ち、縁あって北海道が生活の拠点となった。その間、故郷は本土に復帰。自身は都市対抗大会で優勝し、後に監督を務めた。2006年夏、母校の興南から声がかかった。50代の半ばが過ぎた頃。「野球人としてのラストチャンスかもしれない」。北の大地から、再び沖縄の地へ―。 ◇「根っこ」を重視 翌年春、監督に就任。興南は83年夏を最後に甲子園から遠ざかっていた。我喜屋監督は、すさんだ空気が漂うような野球部の寮を見て「ああ、これは…」。一定の野球レベルにある選手たちであっても、「生活面の裏側というか、例えば日々どういう気持ちで朝を迎えるのか。そういう根っこの部分こそが重要。そこを一から教えていった」。朝の散歩、食後の感謝。それらにどういう意味があるのか、と。 徐々に空気が浄化されていった。監督としても確かな手応えを感じ取り、「この子たちは負けないよ」と自信を持って言えるまでになった。その年、07年の夏、興南は24年ぶりに甲子園に出場。2回戦で敗退したが、確かな一歩を踏み出した。 08年は有望な1年生たちが入学。彼らが2年生の翌09年、春夏とも甲子園へ。ともに初戦で惜敗したが、エースの島袋洋奨投手は選抜大会で19奪三振を記録した。迎えた10年の春。島袋や我如古盛次主将を軸に選抜を初制覇した。我喜屋監督は、当時のチームカラーを「常に次の準備ができる大人の野球」と評す。 ◇昔の興南を追い越した 選抜で優勝した後、宿舎近くの公園で選手たちに、満開の桜を示しながら諭した。「花(優勝)はやがて散る。だから今こそ、幹と根っこをしっかりつくっておこう」 夏も甲子園に出て優勝候補に。準決勝の報徳学園(兵庫)戦では二回で0―5。そこから6―5と逆転勝ちした。我喜屋監督が高校時代の準決勝も、二回で6点のビハインド。そのまま立て直せずに大敗した。はつらつとした教え子たちの姿に「昔の興南を追い越したな。敬意を表するよ」と感慨に浸った。決勝も圧勝し、春夏連覇を達成。真価が問われた夏の堂々たる優勝に「沖縄の野球が完成した」と胸を張る。 帰りの空路、機内にこんなアナウンスが流れたという。「深紅の大優勝旗が今、海を渡ります。この便の乗務員は皆、沖縄出身です」。那覇空港では「おじいちゃん、おばあちゃんが涙ながらに喜んでくれた」と我喜屋監督。沖縄返還前の本土との差を肌で知る世代の涙が、胸にしみた。 (了) 【時事通信社】 〔写真説明〕2010年夏の甲子園で優勝し、史上6校目の春夏連覇を果たした興南の我喜屋優監督=10年8月21日、甲子園 〔写真説明〕2010年夏の甲子園で初優勝し、抱き合って喜ぶ島袋洋奨(右から2人目)と山川大輔(右端)ら興南ナイン。史上6校目の春夏連覇を達成した=10年8月21日、甲子園 〔写真説明〕2010年の選抜高校野球大会で優勝し、場内を行進する興南ナイン=10年4月3日、甲子園 〔写真説明〕甲子園春夏連覇の記念碑=3月8日、那覇市の興南高