「老後への不安」からその後の問題へ






筆者は、約10年にわたってファイナンシャルプランナーとして顧客のライプランについて顧客とともに考え、生涯におけるライフイベントに対する資金的な備えを中心にアドバイスをしてきた。



相談者の年齢層は様々であるが、彼ら・彼女たちに共通した悩みは「老後への不安」である。



将来にわたって公的年金制度が万全とはいえない中で、老後の生活費はもとより医療費や介護費用をどのように賄っていくか…



そして、ある程度の金融資産や不動産を保有されている人であれば、残される遺族への遺産分割や相続税の対策も心配の種である



ところが、最近は、「老後の不安」ではなく相談者自身の死に対する直接的な諸問題が面談時の話題になることが増えてきたように感じている



2016年10月に筆者は、死後に発生するかもしれない問題に、しっかり向き合っていくことの大切さを訴えるため、以下の記事コラムを寄稿した。「【ゼロ葬】という衝撃 「葬儀」、「遺骨引き取り」、「お墓」…一切なしという選択



読者の皆さんに、自分自身が亡くなった後の、葬儀や遺骨・お墓をどうするかという問題、つまり「老後のあとの問題」を意識して頂くきっかけになったのなら幸いである。





自分自身が「余命宣告」を受けたとしたら


本コラムでは、ご自身の死において、より直接的なテーマについて考えてみたい。



「もし、自分自身が大病を患い、回復の見込みがないと医師から余命宣告を受けたとしたら、どのような処置を望みますか?」



あらゆる手段を使ってでも、一年でも数か月でも数週間でも、できる限り長く生きていたいと思うか…



それとも、苦痛を取り除くための処置だけにして延命治療は施さず、それによって結果的に死の時期が早まっても構わないと思うか…。



尊厳死」という選択肢がある。



現代の医学・医療技術では不治の状態であり、明らかに死が迫っていると診断された場合、いたずらに「死期を引き延ばすためだけの延命措置」はしないが、苦痛を和らげるためには、麻薬などを適切に使用して十分な緩和医療を行い、万一、回復不能な遷延性意識障害(持続的な植物状態)に陥った時は生命維持措置を外すことにより自然な人間らしい死を迎えること




…それが尊厳死だ。



一方、よく混同されるものとして「安楽死」がある。



安楽死は、



死期が迫っている患者に耐えることができない身体的な苦痛があり、患者自身が「早く死なせてほしい」との意思を持っていた時、医師が積極的な医療行為で患者を死なせるというものだ。




近年、日本でも尊厳死についての理解は深まってきているが、法的にはまだ整備がされておらず様々な問題を含んでいるテーマである。



法制化が進まない背景には、尊厳死に対し伝統的な家族観に基づいた心理的な抵抗が考えられる。



日本では、「お年寄りの面倒は家族が最後までみるべき」という昔からの考え方が根強く、それが延命治療を拒否したり中止したりする際の障害になっているというのだ



たとえ患者が望んだとしても、多くの家族は薄情にも治療を放棄したと世間から責められるのを恐れている。



また「救える命は可能な限り救う」というのが医療の基本であることから、医師の立場としても、消極的とはいえ死期を早める行為は容認できないという考え方が大勢であろう





変化してきた、「延命拒否」をタブー視する伝統的な考え方






しかし、団塊世代の高齢化が進み、死のあり方への関心が高まる中、尊厳死すなわち「延命拒否をタブー視する伝統的な考え方」は少しずつではあるが変化してきている。



新聞、TV、書籍などで「老衰死」が取り上げられ、高齢者の間では「終活」セミナーが人気になっている。



また、終末期医療の現場においても、衰弱した高齢患者への栄養チューブ利用も減っているという



「今はまさに、死に対する考え方を見直す転換期にある」と筆者は考えている



なぜなら、



医療措置によって生かされているだけでは人間としての尊厳が損なわれるからだ。



そうした考えが日本でも認知されつつある中、民進党の増子参議院議員が会長を務める超党派の議員グループ「終末期における本人意思の尊重を考える議員連盟」の活動を筆者は支持したい。



同議員グループは、患者の同意を得て延命措置をしなかったり、中止したりした場合、医師を法的責任から守るための法律の制定に向けて、積極的な働きかけを行っている。



しかし、2015年に同グループは新たな法律の原案をまとめたものの、残念ながら国会提出には至らなかった。





延命治療の打ち切りを希望する「リビング・ウィル」


リビング・ウィル(living will)」は、生前に「尊厳死の権利を主張して、延命治療の打ち切りを希望する」ことなどを意思表示することを指す。



遺言書の中に、葬儀の方法や臓器提供の可否などを含め、尊厳死を選択する意思を明記することもあるだろう。



しかしながら、世界でも最も速いスピードで高齢化が進む日本で、意に反した延命措置を拒み、自ら望む終末期の姿を「リビング・ウィル」として生前に書き残す人はまだ少数派というのが現状だ。



オランダをはじめとして、ベルギー、米国カリフォルニア州、カナダなどでは、医師による自殺ほう助(PAS /physician-assisted suicide)が合法化、つまり「安楽死」が制度化されているとのこと。



日本において、患者の希望により医師の積極的な医療行為で患者を死なせる「安楽死」はともかくとしても、「尊厳死」の権利選択を法的に保障する法制化の動きが再び活発化すること願いたい





安楽死を扱った映画「92歳のパリジェンヌ」 ※ネタバレあり




≪画像元:「92歳のパリジェンヌ」公式サイト




ところで、2016年秋に日本でも公開されたフランス映画「92歳のパリジェンヌ」は、安楽死を扱った映画として大変興味深いものだった。



筆者は、2016年11月に名古屋市内の映画館で鑑賞したのだが、邦題より原題である「La Derniere Lecon(最期の教え)」の方が、本作品の主題をより的確に表していると思う。



近年は、安楽死に触れた映画が増えているが、これほどまでに安楽死そのものをテーマにして「人生の終止符の打ち方を考えさせる映画」はなかったと感銘を受けた。



ネタバレになるのを承知で本作品の内容を少し紹介すると、主人公の92歳の老婦人が加齢に伴う心身の不調を不快と感じ、日常生活の細かいことが少しずつ、1人ではできなくなっていく。



車の運転はもちろんのこと、調理や家の中の整理整頓、そして便座から立ち上がることすらできなくなり、遂には失禁を繰り返すことに。



92歳という高齢だから身体が不自由になることは不思議ではなく、一般的には介護が必要となる状況だ。



その後、主人公が以前から唱えていた安楽死を決行する気持ちが一段と高まっていき、その本人の思いを悟った息子と娘、孫たちの葛藤が巧みに描かれている







自分自身の意思で、自身の人生の幕を閉じるということ


母親の決意を老人特有の鬱病だからと真剣に受け止められない息子がいる一方で、初めは安楽死に反対したが、次第に母親の気持ちを理解していく娘の心情変化に筆者は感情移入してしまった。

  

筆者の親が同じような状況で安楽死を希望した場合、自身はどのような対応をすべきか、親の気持ちを理解することはできるか…と真剣に考えさせられた。



安楽死を選択した主人公と家族の心だけを真正面からとらえ、本映画は最初から終わりまで余計なエピソードなどが一切入らない素晴らしい作品であったが、唯一、劇場の字幕で「安楽死」ではなく「尊厳死」と誤訳がされていたことが残念であった。



自分自身の意思で、自身の人生の幕を閉じることが極めて自然な行ないである」ことがよく分かる本映画『92歳のパリジェンヌ』を読者の皆さんへ是非お勧めしたい。



ちなみに、主人公の老婦人にはモデルがいて、かつてミッテラン大統領の下でフランス首相を務めたリオネル・ジョスパンの母であるとのことだ。



とかく「日本ではタブー視される死のあり方」について、真正面からまじめに考えるきっかけにして頂ければ幸いである。(執筆者:完山 芳男)



情報提供元: マネーの達人
記事名:「 もしあなたが余命宣告を受けたら、どのように人生の幕を閉じたいですか?