さて、マネックス証券の「メールマガジン新潮流」が、4月25日に配信されました。
そのなかから今回は、同証券のチーフ・外国株コンサルタント、『ハッチ』こと岡元兵八郎氏のコラム「ウォール街を知るハッチの独り言」の内容をご紹介いたします。

世界でも最も知られている証券取引所は間違いなくニューヨーク証券取引所でしょう。
1987年の夏のことです。大学卒業後、米国の証券会社に入社し、ニューヨーク本社での研修の際、私は初めてニューヨーク証券取引所を見学する機会を得ました。
この年は私たち日本人の年金資産を運用していた日本の資産運用会社も米国株投資を本格的に行い始めた年でもあると同時に、米国株が面白いように右肩上がりの年でもありました。

初めて訪れたニューヨーク証券取引所のフロア(立会場)では、オープン・アウトクライ(手振りや声で注文を出し合う方式)によるオークション(競争売買)取引が用いられていました。
その取引のなかで中心的な役割を果たしていたのが「スペシャリスト」でした。スペシャリストとは、割り当てられた銘柄について、可能な限り小さなボラティリティ(価格変動の度合い)で、かつ、秩序ある方法で取引を行い、買い手と売り手を付き合わせることになっています。
朝9時30分にオープニング・ベルが鳴り響いたあと、株価の値決めを行うスペシャリストの周りには証券会社のフロア・ブローカー(場立ち)たちが集まり、証券会社経由で集まった顧客の注文を口頭で執行することになります。
株価を大きく動かすニュースが出た銘柄を扱っているスペシャリストの周りには数多くのブローカーが集まり人だかりができます。
同1987年に公開されたマイケル・ダグラスとチャーリー・シーン主演の映画「ウォール街」で、その時代のニューヨーク証券取引所のトレーディングフロアの様子が映るシーンが紹介されており、この雰囲気を知ることができます。

ニューヨーク証券取引所の歴史は1792年まで遡ります。当時24人のブローカーが街路樹のスズカケノキの下に集まり、株の取引を行なったのが最初の取引所だったと言われています。1800年代の初めにブローカーたちはマンハッタンのブロード・ストリートにある建物に移り、1903年に現在の取引所のビルがオープンしました。

1987年に初めて訪れた後、何度も訪問する機会を得たニューヨーク証券取引所ですが、取引の様子も変わりました。現在は取引所における株価の値決めのところの、かなりの部分は自動化されてしまいましたが、トレーディングフロアでは、未だスペシャリストが健在です。その理由は人間と最先端の技術の融合が上場企業と投資家双方に大きな価値をもたらすであろうという信念があるのだそうです
そんなこともあり、ニューヨーク証券取引所は、未だ世界で唯一の取引フロアで人が動き回わり、人間が株価の価格形成に携わっている貴重な証券取引所となっています。
日本と比べドライな印象もあるアメリカという国の証券取引所ですが、人間味もあるアメリカという意外な側面を見たような気がします。


マネックス証券 チーフ・外国株コンサルタント 岡元 兵八郎
(出所:4/25配信のマネックス証券「メールマガジン新潮流」より、抜粋)


<FA>
情報提供元: FISCO
記事名:「 ウォール街を知るハッチの独り言 世界最大の証券取引所の話(マネックス証券 岡元 兵八郎)