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まず、「(新型コロナショックという)痛みを伴いながらも、やっぱり歓迎される式典じゃなければいけないし、コロナの中で、あえてやる式典を意義あるものにしたい。それが式典に関わる人間の思いじゃないか」と前置きしつつ、野村萬斎は
「皆さん(=世論)が言っているように(開閉会式は)簡素化する、シンプルにする」
……と断言する。「簡素化」「シンプル」──私はそこまで狂言には明るくはないのだけれど、どこか狂言の所作・動きにも通じる発想である……ような気がする。そして、総合統括を担当する者として、以下のような主観を付け加えてもいる。
「個人的には、いろいろな意味でコマーシャリズムがのった五輪を、元に戻すチャンスにしたらいいかなと僕は思っている。理念を再び取り戻す。五輪、パラリンピックをやる意味は何なんだと。この機会にそうなると素晴らしいのではないか。五輪自体はアスリートがしのぎを削る勝負の世界。優劣はつけるけど、人間として平等という理念が基本的にある。ただのお祭り騒ぎではない」
また野村萬斎は、1964年の東京五輪をあらためて見たときの驚きについても、こう述べている。
「運動会、甲子園と変わらない感じ。みんなが心を正して、折り目正しく礼儀正しく行進して、緊張感を持っていた。ブルーインパルスはあったけど、派手なアトラクションはなく」
私なんぞがこんなことを申すのはおこがましくもあるが、一言一句漏らさず、もう共感・共感・感動の嵐である! 新型コロナウィルスの蔓延がまだ(世界的に)収束を見せていないさなか、来年の五輪開催を危ぶむ声は日に日に増してきている。しかし、開閉会式から競技に到るまでの式典全体を(※「式典」というワードのチョイスも、じつに秀逸ではないか!)、野村萬斎が指摘するとおりに「大きな運動会」と解釈するなら、どうにだってやりようはあるではないか……とも思えてくる。いいじゃないか、無観客だって! テレビ映えしなくたって!
「狂言」なる伝統芸能は、本来、権力をひけらかす上司や大名などを茶化したりする要素も、多分に含まれているらしく、今の我々の実生活にも意外と置き換えやすいという。そういう意味で「狂言師はオールマイティ」だと、野村萬斎もインタビュー中で述べている。
「狂言には様式や型があるけど、人間を描写する一つのプログラムでもあるから、ちょっと現代劇用に変換することで、通用する。近似値が近い」
つまり、狂言師とは、時代の空気を敏感に感じ取って、それを今風にアレンジするのに最適な人材ということだ。まことにもってナイスな人選ではないか! 萬斎さん、来年を楽しみにしておりますm(__)m