Youtube「警察相手にTikTok①」より


7月1日、フジテレビの「めざましテレビ」で放送されたことをきっかけに、“警察をおちょくる動画”を次々UPするバカがやり玉に挙がった。新浦安駅で踊る高校2年生などは、実名と在籍中の高校名、出身中学名までもがTwitterで晒され、逆に被害被ってんじゃねぇの?的な炎上まで起こっている。また、大多数が「逮捕しろ」という意見を付けてリプライする中、驚くことに「警察にも悪いヤツがいるんだから、おちょくるくらいいいだろう」という意見も散見された。



 



 



■悪行を自ら晒す愚行が増加し続ける現代社会



 



仕事をしている警察官の横で、ドヘタなダンスを披露したり、公園で警邏中の警官に踊りながら近寄り、ケツを振り回したり。TikTok等のSNSで警官をおちょくるバカな動画をUPし、「こんなスゲェことできるオレ!」とばかりに愚行を自爆する若者たち。



 



警察官に対して行為を行うことで、



 



「権力に挑むオレ」



「度胸のあるオレ」



「どうだ、すげぇだろ、オレ」



「こんなオレを、もっと見ろ!」



 



という謎論法が、どうやら本人の中だけで成り立っているようだが、周囲からの目は冷ややかだ。



 



1980年代の「校内暴力」ブームや1990年代後半の「おやじ狩り」ブームなど、“若者が大人に対して害をなす行為”は、今に始まったことではない。しかし大きく違うのは『善悪見境のない、認証欲求の有無』だろう。



 



昭和の時代であれば、そうした「誰かに反抗するオレ」「そんなオレを誰か見てくれ」的な行為は、あくまでも自分のテリトリーの中で、ひっそりと行われるのが常だった。どんな不良も、わざわざ別の市町村にある見知らぬ学校に行って窓ガラスを割るなどの暴力を振るうことはなかったし、おやじ狩りしたことを仲間内以外に吹聴して歩くことはなかった。



 



これは、自らが「罪を犯した」ことを理解していた表れでもあり、悪いことをして他人に認めてもらう行為は「恥」であると、教育課程の中で知ることができたからだ。



 



 



■過保護教育が生み出した、”痛み”を知らないモンスターたち



 



しかし、平成から令和に至る時代の変遷の中、そうした“感覚”は大きく変わった。先に述べた警官の件だけでなく、貯水タンクで泳いでみたり、おでんの白滝を自身の口に入れて戻したり、唐揚げを床になすりつけてから揚げてみたり。そうした自慰動画を「武勇伝」としてUPし、認証されたいという欲求を誤った方向で満たそうとする若者が後を絶たなくなったのだ。



 



平成25年の3月。文部科学省から全国の教育委員会、知事、大学長、その他公共団体に対し、通達がなされた。内容は「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について」というものだ。



 



発布したのは文部科学省初等中等教育局長の布村幸彦氏と、文部科学省スポーツ・青少年局長の久保公人氏。内容としては、「学校教育法で体罰は禁止されているので絶対やめろ。自らの指導のありかたを見直せ」というもの。「注意、叱責、居残り、宿題、清掃、学校当番の割り当て、文書指導」など、肉体的な苦痛を与えない罰則はひとまずOKだが、それでも「執拗かつ過度に肉体的・精神的負荷を与える指導は教育的指導とは言えない。」という。



 



修学旅行でハメを外した生徒を廊下に並ばせて正座させるのは「過度」の負荷だからNG。



多くの生徒の前で叱責するのは「精神的負荷」を「過度」に与えるものだからNG。



怒りを表すために顔を近づけたり、身体に触れて注意しようものなら「セクハラ」の疑いがかけられ――



 



残念なことに、教師が生徒に対し“手も足も口も出せない教育”がまかり通っているのが、日本の現状だ。



 



では、こうした教育が、本当に、日本人のためになっているのだろうか?



 



 



■「生きた教育」を取り戻すしか対策はない



 



体罰を否定する教育方針は、ゆとり教育が発布された頃から顕著になった。



 



むろん、教師の気分次第で「暴力」を振るわれるようでは、生徒もたまったものじゃないわけで、誤った暴力は駆逐すべきだ。しかし、「自分が間違っている」ということを「体罰」という痛みでしか覚えられない生徒も、間違いなく存在する。



 



筆者が生きてきた昭和の時代は、そうした生徒が教師や親からゲンコツをくらう瞬間を見て「ああ、痛そうだな。あの痛みを自分が体感しないためにも、同じことをしないよう気を付けよう」と、自分自身は何も悪いことをしていないにも関わらず自省させられた。「人のフリ見て我がフリ直せ」という言葉が、生きた教育の中で自然と養われていたのである。



 



同時に、そうして教師たちから「手を出されること」「自省させられること」が、そのまま相手から認証されているという満足にもつながった。



 



悪いことをしても、誰かがそれを見て、必ず止めてくれる。



 



そうした安心感を、確実に心にとどめることができたのだ。



 



しかし残念かつ悲惨なことに、非体罰という“誤った自由認識”の中で育った平成の子どもたちには、そうした「自省」の心を育てる場所がなくなってしまった。ましてや、生徒たちと一定の距離を置くよう文科省に指示されている教師たちとの間に、絆や安心感など生まれるべくもないだろう。



 



つまりは「痛みを伴わない教育」が、世間を騒がしているバカッターや、今回の迷惑動画につながっていると、容易に想像がつくのである。



 



「痛み」は、受けるものだけでなく、周囲にも影響を与える。そして、そうした影響の積み重ねが、人を育てていく。痛みを知らない人間は、他人の痛みなど分かるはずもないわけで……今後、こうした愚かな行為を止めるためには、体罰と暴力の違いを認識し、正しい体罰を行うことができる教師(もちろん親も)を育てていく必要があるだろう。


情報提供元: citrus
記事名:「 「超過保護」教育が原因⁉ 警官をおちょくる若者たちに“痛み”は必要か?