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くまモンはどんどん忙しくなっていった。それでも彼の目標は「みんなに笑顔と元気を届けること」。そしてみんなの笑顔を見ることが、くまモンのエネルギー源でもあると公言していた。
ところが2016年4月14日、熊本県を震度7の地震が襲う。そして28時間後、再度、震度7。のちにこちらが本震で、14日は前震だと言われるようになった、あの「熊本地震」である。
連日、被害の大きかった益城町、西原村、南阿蘇村などが報道され続けた。最初の地震から1年間の有感地震は4297回で、余震の多さも類を見ない大災害だった。
このとき、当時約50万人のフォロワーがいたくまモンのツイッターがピタリと止まった。くまモンは毎日、ツイッターで「おはくま~」「おやくま~」と独特のくまモン語を、熊本弁混じりにつぶやくことで人気があったのだが、地震を境に更新がなくなった。
このときの人々の動きは速かった。自然発生的に、ちばてつや氏や尾田栄一郎氏など有名漫画家が「#くまモン頑張れ絵」として、ツイッター上に絵を投稿、それがどんどん広まっていった。また、くまモンの生みの親でもある小山薫堂氏と水野学氏が復興支援「FOR KUMAMOTO PROJECT」を立ち上げた。
県庁にも、全国から「くまモンは大丈夫?」という手紙が舞い込んだという。徐々に地元から「くまモンに会いたい」という子どもたちの声も聞こえてきた。
「ボクは自分に何ができるのか、ずっと考えていたモン」
大好きな熊本、大好きな地元の人たちのために何ができるのか。くまモン自身、なかなか答が出せなかった。そうしているうちに、子どもの日が目前に迫っていた。くまモンは立ち上がった。避難所にもなっている西原村の保育園にくまモンは行くことを決意したのだ。のちに蒲島知事は、「私は止めたんですよ。だけどくまモンは飛び出して行ってしまった」と話している。
くまモンは、いても立ってもいられなかったのだ。だが、本当にくまモンが行くことで喜んでくれる人がいるのか。帰れと言われるのではないか。くまモン自身も怖かっただろう。だが、それは杞憂だった。くまモンが子どもたちの輪に走り寄ると、子どもたちも歓声で迎えた。久々に子どもたちの笑顔があふれ、声が響いた。それを見た親たちが笑顔になる。くまモンはお年寄りたちにも駆け寄った。握手やハグをしながら笑顔を見せるお年寄りたちの中には、くまモンを拝む人までいた。
そのころ、東京・銀座にあるアンテナショップ「銀座熊本館」は、連日、長蛇の列ができていた。復興支援のために募金に訪れる人、品物を買って応援しようとする人でいっぱいだった。地震から2ヶ月で、熊本館を訪れた人は通常のおよそ2倍の16万5000人にものぼり、売り上げは3倍だったという。
ゴールデンウィーク明け、くまモンが熊本館に現れたときにはメディアが殺到。筆者も行っていたが、シャッターが徐々にあいてくまモンの足が見えたとき、集まったファンからは歓声が上がった。その足がバタバタと動く。くまモンも、きっとみんなに会いたかったのだろう。その後、熊本館2階ではファンとのふれあいがおこなわれ、泣き出すファン多数。誰もがくまモンを、そしてその向こうにいる熊本の人たちを心配していたのだ。
それ以来、くまモンは復興支援の象徴となった。全国からの支援に感謝を届ける「くまもとから感謝をプロジェクト」に知事の名代として全都道府県を回った。くまモンが元気な姿を見せることで、熊本はがんばっていると伝え続けたのだ。
知事は被災後、こう言い続けていた。
「熊本には3つの宝があります。熊本城、阿蘇、そしてくまモンです。熊本城と阿蘇は傷ついたけど、くまモンは元気です」
復興はまだまだ道半ばである。だが、これからもくまモンは先頭に立って、熊本を引っ張っていくはずだ。