還暦を過ぎて、早5年。志村けんは今でも、テレビで“バカ殿”シリーズ、舞台で『志村魂』を定期的に手がけている。生粋のコメディアン。芸人が心酔するコメディアン。ザ・ドリフターズの付き人からはじまって、テレビの頂点に上りつめた生き証人は、今なお現役だ。

 その存在を不動のものとしたのは、伝説のおばけ番組『8時だョ!全員集合』(TBS系)であることは自明の理。すごいのは、同番組がおよそ16年の歴史に幕を下ろしたあとにスタートさせた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(86年〜92年/同)をも、見事にヒットさせた点だ。同番組は加トちゃん(加藤茶)とケンちゃん(志村)が中心となるため、生の公開収録にこだわった“全員集合”を踏襲せず、スタジオコント、ロケ、ギャグ満載のドラマ、視聴者が撮影したビデオ紹介など、次代を見据えた内容に一新した。

 最高視聴率36.0%をマーク。平均視聴率18.1%という、今では大健闘にあたる数字を当たり前のように叩きだしていた。そして、“全員集合”が終了する直接的なきっかけとなった『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)を視聴率でしのぎ、最終的には打ち切りに追い込むリベンジを達成。年々ヒートアップしていった土曜8時の“土8戦争”で、最後にドリフが大勝したのだ。

 このゴールデンコンビでもっとも好評を博したのは、『探偵物語<DETECTIVE STORY>』。ボスからかかってくる電話指令に、「私だ」の決め台詞で応えるふたり。加藤と志村は探偵役で、探偵事務所で起こる日常を描いた短編ドラマ形式のコントだ。テーマ曲は、柳ジョージが担当。無類の映画好きである志村の意図を反映して、アメリカ映画にオマージュを捧げた撮影方法を用いたこともあった。

 同コントが、番組を代表するほどのワンコーナーになった理由は、たくさんある。昭和から平成初期のテレビを象徴するような、製作費のかけ方だ。総勢300人のエキストラを投入したり、野外ロケでは爆破、カーチェイス、ヘリチェイスまで投与。スタジオでは、特殊撮影を導入。当時はほとんど使われることのなかった超小型カメラ(CCD)をいち早く使用して、鮮度の高い映像作りにこだわった。

 キャストも一流をそろえた。丹波哲郎(故人)、若山富三郎(同)、芦田伸介(同)、竹下景子、酒井和歌子など、当時の銀幕スターを次々と出演させた。無名だった矢崎滋、柄本明といった個性派俳優、美人女優として売りだされていた多岐川裕美、アイドルからの脱皮を図った榊原郁恵などのコメディセンスも開花させた。さらに、加賀まりこの顔面にパイを投げてクリームまみれにしたり、戦後の映画界を支えた山村聰(故人)を女装させたりして、とことん前代未聞に挑戦した。

 めまぐるしい進化を遂げつづけた“探偵物語”。ここから、番組終了後も志村が志村であり続けることができたシンボルも、誕生している。バカ殿、変なおじさん、すいかの早食いだ。

 86年6月に放映された、『探偵物語3』の“死霊のスイカ・加トケン最大の危機!! スイカの霊にとりつかれた志村がスイカマンに! スイカが人類を襲う!?”から、すいかの早食いがジワジワ浸透。翌87年3月に放映された同“大丈夫だぁーは心の糧でございます!? うちわ太鼓を手にした志村のだいじょうぶだぁ教が誕生!!”は、86年に1度だけフジテレビの「月曜ドラマランド」で放映された『志村けんのバカ殿様』を、88年からシリーズ化させるきっかけになった。そうして誕生したのが、変なおじさんというキャラクター、“だいじょうぶだぁ”という番組タイトル、「だっふんだぁ!」という名台詞だ。

 コントにいっさいの手抜きを禁じたいっぽうでは、ホームビデオが普及した時代背景も組み入れ、視聴者が撮影した映像を紹介するコーナー『おもしろビデオコーナー』にも尽力した。YouTubeの先駆けといえる同コーナーは徐々に浸透していき、やがて、カンヌで開催される世界最大規模の国際テレビ番組見本市「MIPTV」で、“世界のテレビを変えた50作”に選出されるほどに。また、米国版視聴者投稿番組『America's Funniest Home Videos』もスタートし、米地上波ゴールデン帯で四半世紀にわたり放送されている。

 笑いに魂を捧げた男・志村けん。もしも“日本のテレビを変えた50人”が存在するなら、間違いなくトップ3にランクインするだろう。

(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)

【記事提供:リアルライブ】
情報提供元: リアルライブ