精密測定機器メーカーである株式会社テクロックの代表取締役社長、原田健太郎さんに、これまでの経歴から、二度の社長就任についてのエピソードをうかがった。

原田さんは、1957年、長野県にてテクロック創業者である父のもとに生まれた。幼い頃から物理の世界に興味を持ち、卒業後は東芝に就職し、レーザーディスクの開発者となった。当時から、原田さんは、アイデア創出は「ひらめき」が重要だったと話す。何か特許をとるような偉大なものを開発・設計するときには、積み上げていくのではなく、ひらめきや直感によって、はじめから最終形が見えているという。そのひらめきですべてが決まり、あとは図面に起こすだけ。その最終形が見えたときこそ、うまくいくときだと述べた。

東芝で開発者として成果を上げた後、社内で海外の販路開拓を目的とした新規事業のメンバーに抜擢された。現地では、早口の英語でしゃべるネイティブしかいない中、「究極の極限状態に追い込まれた」と原田さん。そうした環境の中で日々、悪戦苦闘を繰り返していたところ、突如、周囲の人々の言っていることが分かり始めたという。そこで一気に自信がついたと原田さんは語った。

海外での成功後、あるとき、父から事業継承の誘いを受け、1995年にテクロックに入社し、社長の座に就いた。しかしこれは一度目の就任だったと原田さんは話す。つまり、この後、原田さんは二度目の就任を果たすことになるのだ。一度目の社長就任は、失敗に終わってしまった。

当時、原田さんはテクロックに対してもどかしさを感じていたと話す。なぜなら、長年、世界中に精密測定機器を供給し続けてきた継続性は評価できるが、幾度となく訪れたチャンスをものにせず、ブレイクしなかったからだ。それではもったいない。

だから、自分が会社を引き継いだ限りは、チャンスをものにして、何かを実現しなければいけないという気持ちが高まっていた。そして、トップダウンで次々に改革に打って出た。しかし、社員から強い反発にあってしまった。その反発は日に日に強くなり、原田さんは2000年にテクロックを去ることになった。

社長を退任後は、東芝の関連会社を経てヘッドハンティングによってオリンパスへ入社した。革新的な映像とクラウドを融合させたサービスを発表するなど、原田さんはそこでも大きな成果を上げたが、心にはもやがかかったままだったと話す。

そんなとき、ある日の帰宅中、夜空を見上げていた瞬間に、炎の輪が見え、その向こうに海の砂浜が見えたという。そこから原田さんはメッセージを読み取る。理屈ではなくて、炎の中に飛び込むべきだ。その向こうには、綺麗な海が広がっている。つまりそれは、「GO」のサインだったのだ。その瞬間、15年ぶりにテクロックへ戻ることを決意した。

久しぶりに戻った会社は、変わっていない部分と15年という年月が流れた部分の両方を感じたそうだ。そして以前とは明らかに変わった原田さんは、以前とは違った形で改革を目指し、業界初の測定データのデジタル化・分析を簡単に実現する、クラウド型IoT測定ソリューション「SmartMeasure(スマートメジャー)」を開発した。

原田さんに、一度目の社長就任時と何が大きく変わったのかと尋ねたところ、今度は、「チーム」を重視するようになったと話す。しかも、それはワクワクするチーム。新しい発想が現実化するにつれて、ただ楽しく、ワクワクする。そんな会社、チームでありたいと原田さんは、子どものように無邪気に語った。

最後に、原田さんは、日本を背負う若者へメッセージとして、「どんどんチャレンジをして挫折をしていただきたいと思います。挫折は人間を大きくし、また、多くの可能性をさらに広げてくれるものだと思います。新しいことにチャレンジして、新たな自分、バージョンアップした自分を楽しんでいってください」と締めくくった。

情報提供元: マガジンサミット
記事名:「 精密測定機器メーカー テクロックの社長 15年ぶりの復帰で重視したのは「ワクワクするチーム」だった