- 週間ランキング
暑さも峠を越し、朝夕が少し涼しくなりはじめました。暑さに苦しんだ紫の上も少しは良くなるかと思いきや、今度は気温差が体に障り、ちょっとしたことで悪くなります。まだ身にしみるほどの秋風ではないのですが、二条院はどうしても湿っぽい空気になりがちです。
母の容態を案じて里帰りしていた中宮(ちい姫)には、「そろそろ宮中にお戻りを」という催促がひっきりなしに来るようになりました。
紫の上はどうにも心細く(もう少し側にいてほしい)といいたいのですが……。娘とはいえ尊い身分になられた中宮を引き止めるのはさすがに気が引けます。それでもどうしても会わずにはいられない。動けない紫の上に代わり、中宮自ら病室に足を運び、御座所を設けて対面しました。
秋風がすごい勢いで吹く夕暮れでした。2人が庭の萩の花を仲良く眺めているのを見た源氏は「今日はずいぶん具合が良さそうだ。やはり中宮がいると気分が違うんだね」と、心底嬉しそうに言います。
ちょっと自分が体を起こしているだけで、涙を流して喜ぶ夫。紫の上はそれが哀れで「おくと見るほどぞはかなきともすれば 風に乱るる萩のうは露」──こうして起きているのもわずかな間のこと、風に散っていく萩の上露のような私です、と詠います。
確かに風にあおられた庭の萩の葉の上には、今にもころころと転がり落ちそうな丸い露が。
源氏は「露のように儚い世の中なのだから、どっちが後先と言わず一緒に消えたいものだね」と涙ながらに言い、中宮も「命が儚いのは誰しも同じ、お母様だけのことではありませんのに」と続けます。
最愛の妻と娘、この世でも最も優れた女性と言っていい2人を眼の前に、この先1000年も一緒に過ごせたらいいのに、と源氏は思います。しかし命が終わっていくのを止める魔法はないのです。
「もうお戻り下さいまし。なんだか気分がとても悪くなってきました。病気とはいえあまりに失礼に……」紫の上はそう言って、几帳を引き寄せて倒れ込みます。
その様子がいつもと違って見えたので「お母さま、どうなさいましたの?」中宮は手を取り顔を覗き込みます。紫の上の容態は急変し、そのまま危篤状態に陥りました。まさに消えていく露のように……。
原文ではこのまま祈祷の甲斐もなく紫の上が死んでいくのですが、漫画『あさきゆめみし』ではページを割いてヒロインの最後をドラマティックに描いています。
今までの人生の回想と演出もたっぷりで、源氏に抱きしめられながらの大往生。ちい姫も側にいるのですが影が薄い。弾け飛ぶ萩の露とともに、この物語最大のヒロインの死が描かれます。「つぎの世に生まれたら……わたしはべつの生き方を望むかしら……」という最後のモノローグが泣けます。
以前のように、これも物の怪の仕業で、祈れば息を吹き返すのではないかという源氏の願いもむなしく、紫の上は夜明けに亡くなりました。
中宮は(宮中に戻らなくてよかった。お母さまの最期を看取ることができたのはせめてもの救い)と思います。
本当の親子ではなかったけれど、こうして死に目に立ち会えたのはやはり深い縁があったのだろうと、自分を心から愛し育ててくれた養母・紫の上の死を悼みます。それでも、親との別れは仕方ないこととはいえ、到底耐えられる悲しみではありません。
二条院は混乱の極み、誰もが正気を失い激しく泣き騒ぎます。カオス状態の邸内で、源氏は放心し、ひたすら紫の上の側で涙を流し続けています。
事態を知って夕霧も二条院に駆けつけました。源氏は彼をそばに呼び「もう本当に死んでしまったらしい……まだとても信じられないが……。これが最期ならせめて、最後に長年の願いだった出家を叶えてやりたい。剃髪ができる僧たちはいるだろうか」。
源氏は自分ではしっかりしているつもりなのですが、明らかに顔色もおかしく、打ちのめされている様子。当然のこととはいえ、夕霧はそんな父の姿を見るのも胸が痛みます。親のこういう姿ってショックですよね……。
それでも、ここは冷静に「物の怪の仕業でしたら、確かに出家すれば功徳があるやもしれません。でも本当にこれが最期なら、今更剃髪なさっても何の意味があるでしょう。かえって目の前の悲しみが増すだけではないでしょうか」。
生きているときは決して出家をOKしなかった源氏ですが、こうなるとやはり悔いが残ったのか、既に息絶えた紫の上の髪を下ろすことでせめて……と言うことらしい。でも、それなら生きているときに許してあげてほしかった!
ここは夕霧の言う通り「今更そんな事しても悲しみが増すだけで意味がない」としか言いようがありません。死んだらみんな仏様ですからね!
茫然自失し、何をどうすればいいのか、冷静な判断力もなくなってしまった父・源氏にかわり、夕霧は僧侶たちを呼んであれこれと指示してまわります。
夕霧にとっても、紫の上の死は大ショックでした。いつかの秋の日、台風の風のおかげで一瞬だけ彼女の姿を垣間見たその日から、夕霧にとって紫の上は永遠の憧れの人となり、心の底にずっと彼女への愛を抱き続けてきたのです。
父と違い、真面目な夕霧は紫の上とどうこうしたいという破廉恥な願望は抱きませんでしたが、結局その後は接点のないまま、今日の悲しみの日を迎えてしまいました。
(いつか、またあの日のようにお姿を拝見したいと願い続けてきたが、ついにお声を聞くことすら叶わなかった……。これが本当の最期なら、せめて亡骸だけでも拝見したい!チャンスはもう今しかない……!!)
夕霧はオロオロと泣き叫ぶ女房たちを制止するふりをして、なにか話しかけるついでのように、紫の上と源氏がこもる几帳の端をめくりました。わざわざちょっと演技してる!
明るい灯火のもとで見る憧れの人の死に顔は、清らかに美しく、そして愛らしいものでした。もとより、源氏もそばにいるのですが、もう夕霧の目から紫の上を隠そうとすることはしません。
「見てご覧。まだ生きているかのようにみえるのに……だんだん様子が変わってきている」と言いながら袖を顔に当てて泣きむせんでいるばかり。
高貴な女性が夫以外の人に顔を見られるのはタブーです。特に息子・夕霧が紫の上に接近するのを厳重に警戒していた過去を思うと、源氏が夕霧のこの行為を咎めないのは何とも変な感じがします(それに、死に顔だけでもどうしてもみたい!という夕霧の根性もちょっと怖い)。
気が動転していて注意するのを忘れたのか、もう死んでしまった以上見られてもいいと思ったのか?とにかく、このくだりは紫の上に死なれた源氏がいかに冷静でないかを如実に表している……ということなのでしょう。そして夕霧のおかげで、美しいヒロインの死の詳細が彼目線で描写されることになります。
安らかに眠るその人の顔は白く輝くよう、長い髪はふさふさと無造作に枕元に流れて、一筋の乱れもありません。生前、きちんと身繕いをしていたときよりも、無心に眠っている今のほうがかえって美しい。すっぴん美人は本当の美人とはこのことですね。
夕霧はそばから涙が溢れ出て、もう目なんて開けていられないのですが、それでもどうにか目を見開いて、この清らかな死に顔を脳裏に焼き付けました。彼が「どうか魂が抜け出ていかないでくれ」と願いたくなるのも無理のないこと。でも残念ながら、この眠り姫は永遠の眠りから覚めることはないのです。
冷静なものが誰一人としていない中、源氏は無理やり心を沈めて葬儀の準備にあたります。
母、祖母、父(桐壺帝)、最初の正妻・葵の上(夕霧の母)など、幼い頃から親しい人の死に立ち会ってきた源氏ですが、意外にも葬儀の手配をするのはこれが初めて。それも最愛の妻を見送るのですから、何とも皮肉なものです。
高貴な生まれでありながら驕り高ぶることなく、人望熱く思慮に満ちた紫の上は、不思議なほど世間の人に広く愛されていました。葬儀に参列したものはもとより、縁もゆかりもない庶民までもが彼女との別れを惜しみます。
彼女の亡骸は広い野辺で荼毘に付され、煙となって天へ還っていきます。見送りに来た女房たちは泣きすぎて牛車から転げ落ちんばかり、介添え役の係の人はもう大変です。
かつて、夕顔が死んだ時に女房の右近が絶望して身投げしかけたことがありましたが、あの時の惟光も手を焼いていました。今日はそんな感じの女房がいたるところにいるのですから、大混乱です。
源氏はもう、一人では歩くことすらままなりません。両サイドからお付きの人たちに抱えられて、フラフラ、ヨロヨロするのが精一杯。
それを見て庶民たちも「あんな立派な方が」「お気の毒」と同情を寄せています。ショックで腰も立たないのでしょうが、かつての光源氏がこんな姿に……。
紫の上が亡くなったのは14日、今日は15日で満月(中秋の名月)でした。(かつて葵の上を見送ったときは月が出ていたのを覚えているのに……今は天に月があるのかどうかもわからない。私の心は真っ暗だ)。
源氏の心には、もう光も音も匂いも届きません。しかしそんな時でも夜は明けます。朝露も消えた野辺を見て、すべてが当たり前に繰り返される世の無常さが残酷に感じられました。
「紫の上に先立たれて、どうして生きていかれよう。この機に出家しよう」と思うものの、一方では「妻に先立たれて出家なんて女々しい」と世間に言われるのが気になり「もう少しこうして喪に服してから」などと決断できません。
こんな時でも世間体が捨てられず思い切りの悪い源氏。俗人のまま、最愛の妻を失った悲しみを引きずる日々が続きます。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
―― 見たことのないものを見に行こう 『ガジェット通信』
(執筆者: 相澤マイコ) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか